イエスの時代に、ユダヤ人でなくてもユダヤの宗教を尊ぶ人たちがおり、その人たちは、「神を畏れる人」と呼ばれていた。神を畏れる人も、過越し祭の頃にエルサレムに来ていた人々がいた。
イエスに会いたいと言ったギリシャ人たちも、神を畏れる人だったようだ。この人たちは、ユダヤ教に関心を抱く真面目な人たちだったし、さらにはイエスのことにも思いを向けていたようだ。イエスにしてみれば、救いについて並々ならない関心を抱く人々が訪ねて来たことに、大いに心動かされたことと思う。イエスの十字架の本意を理解してくれる人たちが現れたと思われたのだろう。いよいよ「人の子が栄光を受ける時」、十字架にかかる時が来たと言われる。
さらに、イエスは「一粒の麦は、死ねば多くの実を結ぶ」と言われた。この当時、植物の種は地面に蒔かれ土をかぶせられて、一旦死んでしまうのだと思われていた。しかし、多くの実りをもたらすことは驚くべきことだった。
麦は日々の食物であるパンの材料であり、パンは神殿で神に献げるように定められていた。麦のたとえを話されたイエスは、十字架にかかって死ぬことを神殿の献げ物と思っておられたのではないだろうか。
ある人が、この箇所には「死の美学」があると言った。それは、どのように死ぬかということが、この世に生きてきたことを美しくするというのだ。しかし、イエスはそういうことを言っているのではない。この世に生きてきた今までのことを気にしているのではなく、死んでから後のことを言っているのだ。
神を信じるということは、この世のことだけでなく、生も死も包み込む神の計らいを心に留めるようにさせる。イエスは、死んでよみがえられた。一粒の麦が死んで命を得た。そのことによって多くの人が救われ、命に招かれた。私の死の後に、神の良きはからいを期待する。
詩編126編5―6節「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」
星野富弘さんの詩を思い出す。「いのちが一番大事だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」神を知ることは、すべてを神に託し、すべての囚われから自由になり、清々しく神に期待を寄せるようになれるのだ。
|