この聖書の箇所は、最後の晩餐の席でイエスが弟子たちの足を洗ってくださったという「洗足」の場面です。この当時、人々はサンダルを履いていて、家に入る時には足を洗った。人に足を洗ってもらうのは、限られたほんの一部の人たちだけで、足を洗うことは奴隷の仕事だった。イエスは弟子たちの足を洗ってくださり、弟子たちに奴隷のようにへりくだってくださった。そして、この行為は、これから弟子たちが互いにへりくだり合うべきだということを教えるための模範だと話された。
この場面を想像すると、弟子たちはイエスのなさることを受け止めることで精いっぱい、ペトロはイエスに足を洗ってもらうことを大いに戸惑い、恐れ多いことだと断っている。しかし、イエスは弟子たちの足を洗うべきだという強い思いを表される。ペトロに対して、足を洗わないなら「何の関わりもなくなる」とすら言われる。ここでイエスが言う「関わり」という言葉は、イエスとペトロの「関わり、つながり」という意味だけでなく、イエスはペトロに「大事なものを遺していく」のだということをも表しています。
イエスは、これから十字架にかかります。十字架の後、「後でわかる」のですが、ペトロはイエスの大きな愛と赦しに気づくことになります。神の救いへ招かれていることを知ることになります。弟子たちは、イエスが足を洗ってくださることに驚いています。「どうしてそこまでするのか」という気持ちなのでしょうけれども、これはまだまだ序の口、ほんの予兆。これから、大きな大きなイエスの救いの業、神の愛が待ち構えています。イエスが残してくださる良いものを、弟子たち、私達はしっかりと受け取りたい。イエスとの関わりは消えることがない。いつまでもイエスと共に生きる者でありたい。
このイエスの洗足の場面を思い浮かべて、イエスの思いを想像してみました。河野 進牧師は、賀川豊彦の薫陶を受けた人です。簡潔な言葉を綴って印象深い多くの詩を遺しています。「ぞうきん」という題の詩は「こまった時に 思い出され 用がすめば すぐ忘れられる ぞうきんに なりたい」。十字架で
人々の罪を引き受け、命を懸けてくださったイエスは、自ら率先して「ぞうきん」になってくださいました。
1-3節には、最後の晩餐の際、イエスがこれから十字架にかかる時が迫っていることを悟られ、それがためにこの世に遺していく弟子たちに対する深い愛を現わされたと記しています。弟子たちが間違いなくイエスの救いに連なるようにとイエスは思いのすべてを現わされました。1節「この上なく愛し抜かれた」。
そこにはイスカリオテのユダも、ペトロも、すべての弟子がいました。すべての弟子の足を洗ってくださいました。そして、イエスは、私達の足も洗ってくださり、愛し仕えてくださいます。
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