イエスは、ご自身と弟子たちをぶどうの木になぞらえてお話になった。イエ スがぶどうの木の幹、弟子たちはその枝である。イエスのお話になった言葉、 神についての話を信じる弟子たちは、神に受け容れられる者、「あなたがたは 既に清くなっている」(3節)と言われる。イエスを主と信じる信仰によって、 私達は神に受け容れられている。イエスの幹につながっている。
イエスは、「わたしにつながっていないさい。私もあなたがたにつながって いる。」(4節)と言ってくださる。もう一度、5節でも、弟子たちもイエスも互 いにつながり合うと言ってくださっている。一方的に弟子たちにつながってい ろと命令しているのではない。弟子たちがイエスを信じ、そしてイエスも弟子 たちを愛し、その救いに導いてくださるというのだ。そのようにして、ぶどう の木は豊かな実りを結ぶのだ。
気にかかるのは、5節「わたしを離れては、あなたがたは何もできないから である。」という言葉。何もできないとは、少々抵抗を感じてしまう。一人の 人として、人並みに出来ていると言い返したくなる。けれど、ここは私達の生 活能力についてではなく、神の救いに与ることについて語られている。イエス を信じることで、どれほどの恵みを与えられ、良き計らいに与っているかを気 づくべきなのだろう。イエスはぶどうの木、私達をまことの救いに導く「まこ との」ぶどうの木だということを覚えたい。
旧約聖書では、神の民はぶどう畑に譬えられている。イザヤ書5章には、 「ぶどう畑の歌」がある。「1・・・わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう
畑を持っていた。2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に 見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実
ったのは酸っぱいぶどうであった。3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ /わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。4 わたしがぶどう畑のために
なすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。」
15章の原文を見ると、わたしに「つながっていなさい」という言葉は、イ エスのもとに「留まる」という意味。当時の状況を思うと、ユダヤ教の教えに
戻らないという意味。もしもユダヤの律法に頼るならば、不信仰な人、神に従 わなかった人は「酸っぱいぶどう」と言われても仕方がない。しかし、律法を
越えて私たちを慈しまれるイエスは、私達が豊かな実りを結ぶことを願ってお られる。
いつも神様、イエスが、私達が実りを結ぶように大きな慈しみで良き計らい をなしてくださっていることを感謝し、忘れることなく、イエスへの篤い思い を抱いていこう。
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