イエスは弟子たちに「あなたがたはわたしの友である」(14節)と言われ る。「友」とは、どういうことだろうか。
イエスは、この15章前半でぶどうの木の譬えを話され、それに続いてこの 箇所の言葉を語られた。イエスは、ぶどうの木につながる枝、つまり弟子たち (私達)に救いの喜びがあると言う。イエスが十字架にかかり弟子たちに救い をもたらし、弟子たちに救いに与る喜びがある。イエスは人々を愛して十字架 に命を捨ててくださった。同じように、弟子たちに互いに愛し合いなさいと命 じられる。
そして、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」 (13節)と言われるイエスご自身、友のために命を捨ててくださった。この イエスの姿に倣い、互いに愛し合うことの尊さを知る弟子たちは、イエスの思 いを知っている者であり、それでイエスは弟子たちを「友」と呼ばれる。これ は、イエスの弟子たちだけのことではなく、イエスのもとに教会に集う私たち のことでもある。教会は、「イエスの友たち」の交わりだ。
イエスは、弟子たちを選び、弟子としてみもとに招かれた。それは、弟子た ちが立派な人、完璧な人、何でもできる人だからではない。イエスの選びには、 これからへの期待が込められている。今すぐに互いに愛し合うことが難しくて も、いつかそのようにしてくれると期待しておられる。
パウロは、Ⅰコリント1章に神の選びについて触れている。「26 兄弟たち、 あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知
恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かっ たわけでもありません。27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世
の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれまし た」と言う。
「友」という言葉は、原文ではフィロス、親しい人、仲間のこと。神(イエ ス)の前ですべての人は等しく尊い。私達プロテスタントは、誕生当初から
「万人祭司」を説く。教会に集う人たちのことを、家族の親しさを表す「兄弟 姉妹」と言ったりもするが、イエスにとっては、年齢の上下もない「友」なの
だ。
さらに、世の中にこのような集まり、集団が他にあるだろうか。お互いが友 と呼び合える交わりであることを、私達の善いことにしていきたい。イエスを
尊び信じること以外、何の条件も資格もなく仲間なのだ。
イエスは、この言葉をぶどうの木の譬えに続いて話された。イエスをぶどう の木の幹とし、弟子たち(私達)はその枝葉と譬える。ぶどうの木を見ている と、その枝の一本一本が「私が偉い」とか、「わたしのほうが枝が長い」「葉が 大きい」とか、競い合ってはいないように見える。ただ、ぶどうの木につなが っていることが嬉しいのだ。ぶどうの木につながって、それで生き生きと枝葉 を拡げている。イエスには、どの枝葉も等しく尊く、等しく実りを与えてくだ さる。
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