イエスは弟子たちに「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくな るが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(16節)と言われる
が、このイエスの言葉を弟子たちは理解できない。イエスは、ご自身の十字架 の死とよみがえりのことを話しておられる。
「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、 その悲しみは喜びに変わる。」(20節)イエスを憎む人々にとってイエスがこ の世からいなくなることは喜びであり、反対に弟子たちには悲しみである。し かし、悲しんでいる弟子たちの前にイエスはよみがえってその姿を見せてくだ さる。いつも共にいてくださるようになる。だから、弟子たちは喜びにあふれ る。
イエスがよみがえるとは、人の業ではなく神の業だ。神は私達に喜びを与え てくださり、その喜びは神の与える喜びなので誰も奪うことはできない。イエ スは、この世に遺される弟子たちに、心をしっかり持てと励ましている。
この世で私たちには悲しみがある。悲しみが繰り返されるように思われ、取 り返しのつかない辛い出来事が起こり、思いがけなく悲しみを余儀なくされる。 人の罪や欲は自分の喜びを見出すが、しかし、そのような喜びはいつか失われ てしまったり、悲しみに変わることもある。そのような世界に、神様は喜びを もたらしてくださる。この世で最も大きな悲しみが死であるならば、死からの よみがえりとは、どれほどかけがえのない喜びだろうか。
私達は、先立った愛する人との再会を願う。30年くらい前に、『黄泉がえ り』という小説、映画があった。日本の各地で、愛する人のもとに先立った愛
する人が7日間だけよみがえるという話だ。面白い映画だが、私は少し複雑な 気分になった。先立った愛する人との再会を願いながらも、死んだ人がよみが
えることはあり得ないという現実の中にある者として、小説だとしても愛する 人がよみがえるとは安易すぎるのではないかと、どのように受け止めればよい
のかと思わされた。
以前、河野 進牧師の詩『ぞうきん』を紹介したが、もう一つ『朝』という 詩を紹介する。「朝にならない夜はない/夜にならない朝はない/喜びになら
ない悲しみはない/悲しみにならない喜びはない」
前半2行は考えるまでもなくよくわかるが、後半2行はどうだろうか。喜び と悲しみとは、こういうものなのだろうか、どうだろうか。普通の考えではな
いように思うが、河野牧師は、悲しみの世界に生きている私たちが神様と共に 生きているならどうなんだ?と問いかけているように思う。
この世にあって私達は、喜びが悲しみになることを何度も経験する。しかし、 イエスをよみがえらせる神様と共にあるならば、神様の御手の内にあるならば、
悲しみは喜びになるのではないか。ついに神のみもとに立つ時、悲しみは喜び になる。
ローマの信徒への手紙8章28節「神を愛する者たち、つまり、御計画に従 って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わた したちは知っています。
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