日本キリスト教団

   
2023.10.08
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「わたしである」
ヨハネによる福音書
18章1-11節
 イエスは最期の晩餐の後、ゲッセマネの園に行かれた。そこに、イエスを裏 切るイスカリオテのユダ、ローマの兵隊が集まっていた。イエスは「だれを捜 しているのか」と尋ねられた。ナザレのイエスを捜していると聞くと「わたし である」と答えられた。もう一度同じ問答があり、イエスは「わたしである」 と言われる。イエスを捕らえようとする人々の前でも、イエスはひるまず堂々 と身をさらされる。世の人々の救いのために犠牲になることに心を定め、十字 架へと勇ましく向かっていかれる。

  前の17章では、イエスは神への長い祈りをささげられた。神がイエスにお 与えになった人々を失わないで守り、救いをもたらすことができたことを神が 喜んでくださるという思いを表された。イエスは、弟子たちをその場から去ら せ、一人捕らえられて犠牲となられた。世の人々への愛の深さを思う。

  6章では、「わたしは命のパンである」と言われた。「朽ちる食べ物のためで はなく、・・・永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(27節)と言わ れた。イエスこそ神からの救い主であると信じて、信仰をもって生きていくよ うにと言われる。そして、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたし に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることであ る。」(39節)と言われる。このことのために、神から遣わされたイエスは、 自ら進んで十字架へと向かっていかれる。

  イエスは、「わたしは命のパンである」というように、「わたしは〇〇である」 という言い方をされる。ぶどうの木、世の光、良い羊飼いであると言われる。 ギリシャ語では「わたしは〇〇である」という言い方は普通はしない、物々し い方になる。福音書でイエスが「わたしは〇〇である」「わたしである」(エゴ ー・エイミ)と言われる時、神がここにおられること、そしてイエスが神の子 であることを言っている。イエスを捕らえようとする人々は、イエスが「わた しである」と言うと、神の力に圧倒されて地に倒れた。世の人々は、神の子を も捕らえたのだ。

 イエスではなく私たちが「わたしである」と言うなら、他の人ではない私だ という意味になる。私が神に愛されています。私が神に期待されています。私 が神の業を世に示します。それぞれに長所も短所もあるけれども、このような 気持ちで胸を張って歩んでいきたい。

 今日は神学校日。神学校の働き、伝道献身者を覚えて祈る。献身者も、命の パンに生かされる信徒の一人。「神とわたし」を意識した人のことだ。命のパ ンのために働くことを強く自分のこととして思う人たちを神様が生み出される。 これからも生み出してくださるように祈ろう。

 愛隣こども園
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