イエスの時代に、ユダヤの国はローマ帝国に支配され司法の権利を奪われて いた。それで、イエスを死刑にするためにローマ帝国に託し、総督ピラトがイ
エスを裁判にかけ十字架刑に処した。イエスの十字架に掲げられた罪状書きは、 「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」だった。
ユダヤというのを神の民と読み替えれば、イエスは神の民の王、あながち間 違いではない。しかし、イエスを国家を転覆させようとする扇動家の一人とみ なし、多くの政治犯のようにユダヤ人の王と名乗ったと決めつけられていたの だから、決して喜ぶべき罪状ではない。イエスは最期まで世の人から理解され なかったのだと思わされる。
洗礼者ヨハネは、ヨハネ福音書1章で、近づいてくるイエスを見て「見よ、 世の罪を取り除く神の子羊」と呼んだ。イエスの十字架に掲げるのは、これが ふさわしい。
裁判の場でイエスは、ピラトから「お前はユダヤ人の王なのか。」「どこから 来たのか」と問われて、「わたしの国はこの世に属していない」と答えられた。 イエスの国とは、天上の神のおられるところ、肉の目には見えない霊の世界の こと。ヨハネ福音書は、繰り返しイエスは神のみもとで見たことを世に伝えて いると書いている。
マタイ福音書2章では、東方から博士がやって来て「ユダヤ人の王はどこで お生まれですか」と問う。ユダヤ人のヘロデ王の宮殿にはおらず、貧しい馬小 屋におられた。
イエスは弟子たちに言われる。「あなたがたも知っているように、異邦人の 間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振る っている。43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で 偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 いちばん上になりたい者は、すべ ての人の僕になりなさい。」(マルコ10:42-43)神のみもとでは、へり 2 くだる人が重んじられる。イエスは、そのように十字架にかかる。
王様なのに十字架にかかる。へりくだることが尊いことである。こういうこ とは、自分中心の人には理解しずらい。へりくだることによって、何か良いこ とがあるのかしらと思うし、神の愛や復活など、神の御心を聞かないでは理解 できないことだと思う。私もイエスを理解できなかった一人なのかもしれない。
神様は私たち人間の理解を超える御業をなそうとされる。それは、とてもす ばらしいことだが、そのために神の御子イエスは理解されないままに十字架に
かけられたのだ。十字架に表される神の御心と愛を信じることができるのは、 とても幸いなことだと思わされる。
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