日本キリスト教団

   
2023.11.05
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「葬りを越えて」
ヨハネによる福音書
19章38節-20章2節
 私達は死者を葬ることをします。これは、愛する人に対する最後の愛情や尊 敬の思いを表す時です。今日与えられた聖書の言葉は、イエス様が十字架にか けられて息を引き取り、その遺体を引き取り、お墓に埋葬したということが記 されています。

  イエス様の遺体を引き取ったのは、イエスの弟子たちや家族ではありません でした。イエスを尊敬する人、ユダヤの議員でアリマタヤという町の出身のヨ セフという人でした。ユダヤの社会では立場のある人でした。それで、イエス のことを注目し、大きな関心を寄せていましたが、イエスへの敬意を抱いてい ることを公に表明できなかったのです。同じように、ユダヤの議員ニコデモも 秘かにイエスを尊敬していた人で、アリマタヤのヨセフがイエスを埋葬するの を協力しました。ユダヤで安息日は行動が制限されますから、その日の前に、 許されている時間のうちに、急いで没薬、沈香を塗りました。亜麻布で包みま した。死者に対しての精一杯のことをしたのです。

  この人たちは、どんな思いでイエスを葬ったのでしょうか。イエスに対する 敬意だけでなく、イエスに対する申し訳ない気持ちを抱いていたと思います。 イエスへの本当の思いを表したい、現わさなければと思いながら、気が付いた らイエスその人は死んでしまった。不甲斐なさを感じていたと思います。イエ スが生きていた時には何もできなかった、そのように悔いる思いは、誰よりも 死んだイエスを葬る思いを深くさせていたことだろうと思います。イエスに対 する「ごめんなさい」という気持ち、これがイエスの弟子たちの代わりに、ユ ダヤの議員でありながらも、敢えてイエスを丁重に葬る勇気を与えたのです。

  私も、家族を葬りました。同居家族や関わりが深かった人ほど、「ありがと う」という気持ちだでなく、「この人に私は何ができただろうか」ということ を思わせられました。イエスの遺体を葬るヨセフ、ニコデモの思いがありまし た。家族を葬った私たちの思いがありました。一言で言えば、「ありがとう」 「ごめんなさい」。そして、そのような思いを抱きながら、私たちは愛する人 に対して、心を込めて、出来るだけのことをするのです。これが私達が死者を 葬るということではないでしょうか。

 そして、イエスを葬るということはそれで終わらなかったということが、今 日読まれた聖書の言葉に書かれています。私達の行う葬りを越えて、神様のな さる救いの出来事が起こります。死んだイエスは復活しました。

  イエスのよみがえったことは、先に天に召された方々、私たちがよみがえる ことを先取りしています。ですから、私達に、先に召された愛する人と相まみ える時が来るのです。この地上で別れることを余儀なくされた者同士、また相 まみえることができる。そして、神のみもとに、神様の国で、共に過ごすこと ができるようになるのです。神のみもとにあって、すべて人が罪を赦され、神 の慈しみを受けるばかりです。神様はこのときを、私たちのために用意してお られます。

  「ありがとう」「ごめんなさい」、このような思いの中に、私たちは愛する人 を見送りました。私達の精一杯の愛を現わしました。そのような私たちに、神 様は召された人と共に喜ぶことができる時を備えてくださっています。私達の 「ごめんなさい」が、どれほど大きくても、神様はすべてのことを受け止めら れ、どんなに弱く情けないことや見苦しいことも慈しんでくださり、天にいる あの人も、私たちも、神様のみ腕の内に、平和のうちに一つになるのです。

  陸前高田市の山の中に「漂流ポスト」は置かれています。突然いなくなった あの人への手紙が届きます。死んだ人への思いを綴る手紙は、その人の死を受 け入れること、少しでも前向きに生きるためになるのだそうです。息子へ、何 年も手紙を書き続ける母親がいます。心の底から死を受け入れられなくても、 いなくなった息子と共に生き、少しでも前向きになるように導かれています。

  葬りをできなかった人は、死んだ人への思いを抱き続けます。けれど、それ は、葬りをした私たちでも、大なり小なり同じです。神様が私達の心に平安な 思いを与えてくださること、先立った人と共に前向きに生きられるように導い てくださることを願っています。

 愛隣こども園
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