「わたしの主よ、わたしの神よ」。イエスの弟子トマスが、よみがえられたイ エスを見て信仰を告白しました。
「わたしの主よ」と言うのです。自分が最も尊敬し従うべき方であるというの です。自分の人生の導き手です。誰よりも私のことを知り、私が思っているより ももっと良い人生に導いてくださる方です。トマスは主であるイエスに、自分自 身をゆだねて生きていくのです。
「わたしの神よ」と言っています。トマスは、真の神を見出しました。今まで はイエスの弟子として、イエスという師に従っていましたが、これからはイエス は神、神の子です。イエスは神から遣わされた方です。この方と共にあるなら、 神と共にあるのです。神の恵みと祝福が共にあるのです。
トマスが信仰を告白するに至る前に、トマスは心を歪めていました。他の弟子 たちは既によみがえられたイエスに会ったというのですから、それを聞いてトマ スは自分一人が会っていないことを思い、ひがむ心を起こしました。私だけでき ていないという事実は、誰が意図したことではないにしても、ただそれだけで私 たちの心を揺さぶります。トマスもそうでした。他の弟子たちに対するひがんだ 心は、イエスのよみがえりを信じないという強い思いになりました。「あの方の 手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹 に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(25節)何があっても断固信 じないのだと力んでしまいました。
けれど、そのトマスは、イエスに会って信仰を告白しました。イエスの傷に触 れることもなく、他の弟子たちと同じようにイエスが見せてくれた傷を見ただけ ですが、信じるようになりました。これはどういうことでしょうか。
トマスがいなかった時、他の弟子たちがイエスに出会った時、イエスは弟子た ちに聖霊を吹きかけておられました。弟子たちの交わりは、神が共にある交わり、 つまり教会の交わりなのです。その中にトマスは共にいて、イエスと出会いまし た。神様の霊の働く所、信じる人々の交わりのある所、そこで人はイエスに対す る信仰を告白するように導かれます。イエスへの信仰を告白した時、トマスは聖 霊の交わり、信仰者の交わりの内にあり、信仰へ導かれたのです。
そして、よみがえったイエスを見た時、トマスは目の前のイエスをまっすぐに 見ていたのです。もはや自分一人まだ会っていないとか、他の弟子たちより出遅
れているとか、そういう人と比べる気持ちはなかったのだと思います。ただ見る べきはイエスの姿。神がここにおられることだけです。私達は教会の交わりの中
にある時、周りの人のことを、ことさら気にすることはないでしょうか。そうで はなく、なすべきことの一番初めにあることは、イエスを見つめ、イエスの言葉
と働きを思い出すことです。トマスが告白したような信仰へと導かれること、信仰を続けることがイエスが願っていることです。
決して信じないと力んでいた人が信仰を告白した。この場面を思い描いて、洗 礼式を思い浮かべます。イエスを信じる人が誕生する場面です。あれほど信仰に
戸惑い、抵抗していたのに、信じてくれるのだという喜びを、私は何度か経験し ました。神様のお計らいの不思議さを思わせられました。何年もかけて信仰を理
解しようと努めておられ、人に話を聞いたりしておられた方は、信仰のプールに 飛び込むようにと勧められました。そこに理屈や理由は必要ありません。トマス
がどうして信仰を告白するようになったのか、それは理屈ではないと思います。 イエスへの前向きな思いがあったとしか言えないと思います。
ヨハネ福音書を読み進めて、講読することは今回が最後になります。ヨハネ福 音書は、その初めから、このトマスの信仰の告白「わたしの主よ、わたしの神よ」
という言葉を目指して書かれていると言われます。神様のみもとから神の子がこ の世に来られ、神のみ心を語り続けますが、ユダヤの人々は全く無理解です。し
かし、イエスは繰り返し自分が神の子であり、神の本当の御心を語っているだと 話してきました。そして、最後の大団円、よみがえったイエスに会ったトマスが
「わたしの主よ、わたしの神よ」と力一杯に告白するのです。ヨハネ福音書のす べてがこの一言にまとめられ、この一言を聞くために書かれているのです。福音
書を書いた人は、読む人がトマスのように告白をすることを願っています。これ が信仰者の模範なのです。トマスも私たちも、この福音書を読み返しつつ、イエスの言葉とみ業を心に刻み、信仰の歩みを続けるのです。
イエスの弟子たちは、「使徒」と呼ばれます。それは、イエスの言葉とみ業を 見聞きした人、それを後世に伝える人です。その人たちには、イエスはご自分の よみがえったことを見せてくださいました。よみがえったイエスは弟子たちの前 に現れました。私達は、この使徒たちの言い伝え、聖書の言葉を信じて、イエス のよみがえりを信じ、信仰の歩みを続けます。それでイエスは、「見ないで信じ る人になりなさい」と言われています。私達は弟子たちのようにイエスに会うこ とはできませんが、イエスを見た人の言葉を頼りに信じることができるのです。
トマスは、イエスの体と手の傷を触れることはありませんでした。イエスの姿 を見ただけで信じました。イエスの傷に触れる必要はありません。トマスがそう
だったように、イエスが共にいるならば、私たちは信じることができるのです。
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