クリスマスの時期になると思い出す詩があります。50年くらい昔のドイツの人が 作った詩です。「アドベント」という題名の詩です。「人は空を見上げて待っている
あそこから来る人を。でも空から来はしない。見上げていても無駄なのだ。そうして いるうちにあの人は人々の背後からいらっしゃるのだ。」
人々は主イエスがあそこから、天高くから現れるのだと思って、天の高みを見上げ て待っている。それは、人々が予想するようにして救いを待つということです。けれ
ど、救い主は人々が予想するような仕方では来られない。私達が何か常識的に思って いることをわきに置かないと理解できないような仕方で救い主が現れるというのです。
どうして救い主イエス様が、馬小屋でお生まれになったのか、最初に知らせを受け たのは羊飼いたちだったのか、こういうことを思うと、私たちの予想するような仕方
で救い主がこの世に来られたのではないのです。神様がこの世のために遣わされるそ んな貴い方ならば、それなりの立場がある人の子どもであるとか、それにふさわしい
場所があるものだと私たちは思いがちです。けれど、そのような仕方ではなくこの世 に来られたということを通して、神様は大切なことを私たちに知らせようとなさって
いるのです。それを私達に語ってくれている人々の一人が、イエスの母親になるマリ アです。
宗教改革の指導者ルターは、イエスの母親マリアのことをこのように書いています。 「ユダヤのエルサレムには王様の娘のように富める、人目を惹く、若い、教養のある、
国中の人々から高く尊敬されていた大祭司や議員の娘たちがいた。マリアは、王様、 支配者の娘ではなく、だれからもかえりみられず、尊敬されることもない、貧しい普
通の娘であった。そして、彼女は、家畜や台所の世話をする一人の娘であった。そし て疑いもなく、命じられるままに仕事をなす、貧しい召使と何ら変わるところはなか
った。」
さらに、こう書いています。「人はいかにして神を知り、神を愛し、賛美すべきか を、私たちに教えている。すなわち、マリアが・・・無に等しい存在であったにもか
かわらず、神は彼女を顧みられたから、マリアは喜ばしい躍るような心で神を賛美す るのである。」
マリアの境遇、社会的な立場ということだけでなく、マリアのような人々が、実際 どのような状態で日々を過ごし、何を思いながら一日一日を生きていたのかを振り返
るなら、神の慈しみを大きな声で讃えるのも良く理解できます。
旧約聖書の詩編には、神は天高くから、この地の低い所を見ておられると歌う歌が あります。113編4節以下。「主はすべての国を超えて高くいまし/主の栄光は天
を超えて輝く。わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、な お、低く下って天と地を御覧になる。弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥の中
から高く上げ、自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。」
救い主イエス様は、ナザレの村のマリアの子として、ベツレヘムの馬小屋にお生ま れになりました。そして、世の人々にいつも温かい眼差しを向けてくださいました。
隣人を愛することを忘れていた徴税人ザアカイの家に宿られました。世の人々から蔑 まれていた人たち、罪人と呼ばれていた人々の友になられました。そして、今日一日
を生きることが精一杯の人、体の不自由な人、病気の痛みをこらえる人たちを慈しん でくださいました。
わざと人目を惹くようなことはなさらず、奇をてらうこともなく、どの人とも人と 人、人格と人格、心と心の交わり、真実な関わりをなしてくださいました。一人ひと
りが今ここに生きていることに自信を持つことができ、安心することができたのだと 思います。この方がおられることを生きる望みとする人が、あの時もそして今もたく
さんいるのです。
イエス様は、この世に神様の愛をもたらしてくださいました。このイエス様の愛に 溢れたお働きは、ナザレの村のマリアの子としてお生まれになったということに既に
示されていたのです。
もしこの世に救われるべき人、神に顧みられる順番があるとしたなら、それはどの ような人からなのか、すべての人に神の救いがあるとはどういうことなのかというこ
との答えを、イエス様がマリアの子としてお生まれになったことに明らかです。
天使は、その眼差しをマリアに向けています。「恐れることはない」と語りかけま す。「恐れることはない。大きな役目を与えられてしり込みすることはない。神様は
あなたに目を止められた。あなただからできることがある。あなただから相応しいこ とがある。あなたが救い主の母親になることが、世の人々に神のみ心を知らせること
になるのだ」と。「主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。」今、 マリアに、すべての人に、神の愛が向けられています
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