イエスがお生まれになり、東の国から星に導かれて博士たちがベツレヘムの 馬小屋にやってきました。イエスのもとにたどり着く前に王宮に行き、ユダヤ
人の王はどこにいるのかと尋ねますが、誰も知りませんでした。預言者の言葉 に導かれてベツレヘムを目指しました。馬小屋でイエスと出会い、これで初心
貫徹です。私たちの新しい一年も、初心貫徹となりたいものです。
初詣に人々は一年の幸いを祈ります。私達も、私たちの神様に、恵みと祝福、 平和を祈ります。幸いとは、ひっくり返せば苦しみがないことだと思いますが、
それだけでなく苦しんでもそれを人生の糧にすることができることでもあるの ではないでしょうか。苦しみを通して神様をより身近に感じるようになったり、
神様のみ心を知ることもあります。東の国から来た博士たちがたどった道のり は、救い主を与えたもう神のはからいに救いを見出す道だったと思います。
東の国の博士たちであるなら、東の国の神様を信じればよいでしょう。どう してわざわざユダヤ人の王に会いたいと思ったり、ユダヤまでやって来たので
しょうか。聖書は他の国の神様は偶像だと言いますが、博士たちは聖書の神、 真の神のなさることを見届けようとしています。馬小屋のイエスに、ユダヤの
神、真の神の確かさを見出したのです。
申命記4章で、指導者モーセが、荒野の旅を終えてこれから約束の地に入っ ていこうとする神の民に向かって教えています。偶像を礼拝するな、真の神を 礼拝しよう。あなたがたは偶像の神を礼拝し、頼りにならない者を頼りにし、 それがために苦しめられる時があるかもしれないが、しかし、真の神に心を向 け変えれば、神は喜び大いに慈しんでくださると教えています。偶像に頼って いたあなたがたは、ついに「(真の)神に出会う」(29節)と言うのです。
この世になぜ苦しみがあるのか。私達が偶像を頼りにし、頼りにならないあ れこれを頼りにし、それで苦しむのです。そして、この世に苦しみがあるのは、 苦しみを通して、神様だけが望みだということを知るためなのです。
有名な詩編の言葉に「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わ たしはあなたの掟を学ぶようになりました。あなたの口から出る律法はわたし にとって/幾千の金銀にまさる恵みです。」(詩編119:71-72)とあり ます。博士たちは長い旅をしつつ、多くの困難や命の危険に身をさらしつつ、 ついに救い主に出会ったのです。
私たちのこの世の歩みの中に、目を疑い、耳を疑うようなことが起きます。 思い通りにならないこともあります。しかし、神様と共に歩むなら、歩むこと に意味があります。博士たちの歩んだ旅のように、私たちのこの世の旅はつい に神の救い、救い主に出会う旅です。星を見上げて暗い夜道を歩んだ博士たち のように、私たちもこの世の暗い道を神と共に歩むのです。イエス様が私達を 心の中の馬小屋で迎えてくださいます。
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