イエスが宣教活動を始める前に、洗礼者ヨハネはヨルダン川の荒れ野で悔い 改めのしるしの洗礼を授けていた。砂と岩ばかりの荒れ野に、修行者のような
生活をし、世の人々に神に立ち帰るよう悔い改めを呼びかかていた。
このヨハネの働きをマルコ福音書は、イザヤ書40章の言葉で説明している。 強大なバビロン帝国の囚われ人となった人々の解放が間近だと告げるイザヤの
言葉を引用し、イエスが現れて救い主の働きをする備えをしているとしている。
ヨハネ自身、これから現れる救い主の前に取るに足りないと謙遜している。 見逃すことができないのは、ヨハネは水で洗礼を授けるが、イエスは「聖霊に
よって」洗礼を授けるということだ。神の救いの力、イエスの十字架とよみが えりの力が、私達に働くのだ。
洗礼は、ユダヤ教の沐浴(もくよく 水で体を洗う)という習慣を基にして いる。罪穢れを洗い落とし、正しい心を取り戻すために、神の前にありのまま
の人になるために沐浴をする。ヨハネは、そのような沐浴(洗礼)を人々に勧 めた。このことは、ヨハネが荒れ野で活動したということ大きな関係がある。
荒れ野とは、ユダヤの人々にとっては祖先が出エジプトをして40年間彷徨 った場所だ。信仰の原点というべき経験、神と人との正しい関わりを経験した
場所だ。このことをヨハネは当時の人々に思い出させ、また今も私たちを神と の正しい関係へと招いている。
イエスはこのヨハネについて、ルカ福音書7章で語っている。「『見よ、わた しはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書
いてあるのは、この人のことだ。」「では、今の時代の人たちは何にたとえたら よいか。彼らは何に似ているか。・・・『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかっ
た。葬式の歌をうたったのに、/泣いてくれなかった。』
当時のファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、守るべきもの手放すこと のできないものがあり、神の前にありのままになれなかったし、自分が神のよ
うになり、すべてを自分の手の内に治めているように錯覚していた。それで、 イエスに対して正しい眼差しを向けることができなかった。
2007年公開のアメリカ映画『イントゥー・ザ・ワイルド』(荒れ野へ) は、青年が自由を求めてアラスカの荒野で生きようとするが、自然の厳しさの
中に命尽きる話だ。何の制約もない大自然の中にあって、パステルナークの言 う「物事を正しい名前で呼ぶこと」(ありのままに見ること)が何より大切だ
ということを知るが、しかし、この世界は厳しかった。神を神とし、人と人と してあることの大切さを思わされる。
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