日本キリスト教団

 
 
2024.01.28
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
「ペ トロの家で」
マルコによる福音書
第1章29-34節
 イエスは、ガリラヤ湖のほとりに行かれ、漁師だったシモン・ペトロとアン デレ、ヨハネとヤコブを弟子に招かれた。そして、ガリラヤ湖のほとりの町カ ファルナウムの会堂に行き礼拝した。そこには、汚れた霊に取りつかれた人が いたが、イエスは癒された。その後、イエスと弟子たちは、シモン・ペトロの 家に行った。振り返って、イエスは、漁師の仕事場(公の場)、礼拝の場、ペ トロの家(私的な場)に行かれる。イエスは、私たちが生きているあらゆる場 所におられる。そして、私たちをイエスを助ける働きに招かれる。私達が困っ ていることを憐れまれ、助けてくださる。イエスは、ペトロのしゅうとめの病 を癒してくださった。ペトロのしゅうとめは癒されて、イエスと弟子たちをも てなした。

  イエスがペトロに出会い、その人の家に行くとそこにしゅうとめがいて、イ エスとの出会いがなされた。これは、予期しないで、偶然に出会ったというこ とだ。イエスとペトロのつながりが、ペトロの家族との出会いを生み出した。 つまり、ペトロは家族に伝道したのだ。信徒の家庭での集会に、その家の家族 が出席して、信仰に導かれるということがあった。たまたま自分の家が集会の 場だったのだが、神様の導きは予期できないことだ。

 パウロは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われま す。」(使徒言行録16:31)と言っている。家族が入信しなくとも、「イエ ス様が共にいますように」と、私達は家族を覚えて祈りたい。また、家庭は一 人ひとりがありのままの自分に戻る場所だが、イエスが自分の家に来られたと いうことは、弟子となったペトロにも、これからの弟子としての働きのために も、大きな安心感を与えることだったのではないだろうか。

  先輩のある牧師はお寺の子だったが、小学生の頃から教会学校に通い牧師に なった。中学生の頃に教会に通うことは一時中断したが、教会から送られてき た集会を案内する一枚のはがきをきっかけに教会に通うことを再開し、今に至 ったという。自宅に届いた一枚のはがき、それを手渡してくれる家族がいた。 2 家族公認の信仰生活の中に、献身の思いが与えられた。牧師の志を問われた時、 「イエスを伝える1枚のはがきになりたい」と言っていた。

  イエスは、律法学者に厳しかった。人前でわざと良い姿を見せて、私(自分) を宣伝していると、偽善者だと忠告した。自分のために神様を利用することを たしなめた。イエスが、もしも律法学者のように自分を良く見せようとしたな ら、個人の家で癒しの業(救い)をなさっただろうか。イエスはそういう人で はなかったので、わずかな人しかいないペトロの家でも、その家族のために癒 しの業をされた。イエスにとって、癒し、救いは、いつも目の前にいる人のた め、その人ひとりのためだった。イエスは、ひとりのことを大事に思っておら れる。自分の「家」で、世間で身に着けている羽織袴を脱いでいる私たちを受 け止めてくださる。

  ルカ福音書19章で、イエスは徴税人ザアカイの家に宿られた。ザアカイと 親しく話をされ、ザアカイに温かい眼差しを向けられた。それで、ザアカイは 悔い改めた。人をだますことをやめる、奪い取ったものを4倍にして返すと誓 った。人への愛を抱き、へりくだって生きていくと誓った。イエスの愛を知っ た人は、愛を喜び、愛に応える人になる。神と人に仕える人になる。

  神の前に「罪」とは、「的外れ」ということ。神様が人をお造りになった時 に期待していた人のあり様とは違うこと、的外れなことを罪という。神様の期 待通りのあり様に戻ること、真の人間になることが私達の救いだ。病は罪の故 だと言うのなら、病の癒しは神の前に「真の人間」にしてもらうことだ。ペト ロの家で、しゅうとめは病を癒してもらった。そして、イエスと人々をもてな した。

 愛隣こども園
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