脚本家の田中澄江さんは継母に育てられ、愛情薄く育てられたと思っていたが、 ある時、決してそうではなかったことに気が付かされたという。自分は気づかなか
ったが、継母は実子よりも心を用いてくれていた。親の愛とはこういうことだし、 神の愛も同じではないだろうか。愛されているということに気づく時が、神を受け
容れる時だ。自分の思いよりも先に神の愛がある。すべてに先立つ神の愛と恵みに よって、私達は救われる。
私たちは献金をする。神からいただいた恵みを感謝し、受けた恵みのほんの一部 をお返しする。人が何かを作り出し、神に与えることができるだろうか。ましてや、
受けた恵みにふさわしいだけをお返しすることができるだろうか。神の恵みがあっ て私たちがある。この順序は、決して変わらない。
マリヤは、客人イエスの話に耳を傾けていた。語られるのはイエスなのだから、 神に救われるという話だったと思う。神から人へと恵みを与えられて救いがある、
という話だったと思う。まさに、マリヤはイエスから救いの言葉を受け取っている。 このことを、イエスは喜んでおられただろう。
この全く逆なのが、マルタの姿。自分がイエスをもてなさねばと奮闘する。そし て、マリヤを赦せなくなり憎んでしまう。なすべきことをなしていない人を赦さな
い、律法学者の姿に近づいていく。マルタの間違いの始まりは、イエスから恵みを 受け取るの先に、まず自分がイエスに対してしっかりしなければと力んだことだと
思う。
「マリヤは良い方を選んだ」とイエスは言われた。今、イエスを客として迎えて いるのだから、もてなす方法は他の人とは違ってくる。イエスのしてほしいことは、
何よりも先に、私達が神からの恵みを受け取ることだ。それをマリヤはやっている のだ。イエスの言葉に耳を傾けること、これこそがイエスをもてなすことなのだ。
私たちが自分の家にお客さんを向けてもてなすなら、もちろんマルタのように接 待をする。しかし、客の心を受け止めることが一番肝心なことだ。教会に来たなら、
何より尊ばれることは、神の御言葉に耳を傾けることだ。私達が救われるために、 神は私達に仕えてくださった。神の子イエスは、十字架にかかってくださった。こ
のことを思い出すことが、イエスをもてなすこと、イエスが喜ばれることだ。
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