十人のおとめの譬えは、当時の婚礼の習慣を基にしている。花嫁は花婿が来 るのを待つ。花婿を出迎えるのが、この箇所での十人の乙女たち。いつやって
来るのかわからないままで花婿を迎えるが、花婿がやって来たという知らせっ を受けて乙女たちが真っ先に出迎えて、それから花嫁の家に行き婚礼をする。
油を用意していた乙女たちは無事に花婿を出迎え婚礼の喜びを共にすることが できたが、一方では、油を持たない乙女たちは花婿を出迎えることも、婚礼の
喜びを共にすることもできなかった。
イエスは、こういうたとえ話をされて、「目を覚ましていなさい。あなたが たは、その日、その時を知らないのだから。」(13節)と教えられた。
乙女たちが持っていた油とは、何のことだろうか。花婿がいつ来るのかわか らないとは、終末の日、世界の救いの日がいつ来るのかわからないことであり、
その時持っているべき油とは神を迎え、神の救いに与るのにふさわしい心のこ とだ。
受難節に入り、イエスが私達の救いのために苦しまれたことを想い起す日々 になっている。イエスが苦しまれ、私達の罪が赦された。受難節に、私達は罪
ある人間だということを思う。そして、イエスの苦しみによって罪ある人が救 われたことを思う。私達の罪と救いを、イエスの苦しみを通して思い起こす。
宗教改革者ルターは、私達が目覚めていること、持っているべき油を持つと いうのは、信仰義認のことだと言った。私達は自分が立派だからとか、行いに
よって救われるのではなく、イエスが苦しまれたことが救いをもたらしたこと を信じて、信仰によって救われる。このことを弁えているなら、神のみもとに
招かれて、神と共に救いを喜ぶことができる。受難節の今、私達は罪人であり、 しかし同時に、救いにあずかっていることを想い起したい。私達は皆、罪人だ
が、救われた罪人だ。
ずいぶん前のこと、礼拝中に私が説教をしていると、最前列に座っていた壮 年が、膝の上に広げていた大きな重たい聖書を落とした。その大きな音に、礼
拝堂にいた人たちが驚いた。皆は、その人が寝ておられたように思ったようだ。 礼拝後に、これぞ、寝ている学問(寝学:神学)と言って、皆、ほほえましく
受け止めた。
私が思うには、その方は目をとじて説教に耳を傾けながら、神様に心を向け ておられたのだと思う。神様に心を集中していたので、黙想していたので、手 に力が入らなくなったのだと思う。だから、その方は寝てはいなかった。一週 間の歩みを歩み抜いて、俗世間を離れて、神様に身をゆだねて、その心は神様 に向かって目覚めておられたと思っています。
説教を聞く時に大切なのは、語られる言葉の内容を理解することだけでなく、 神様のことを思い、神の恵みを思い、神と共に生きる心を与えられることでは
ないでしょうか。受難節を迎えて、神様の前に自らの歩み、今までの神の導き を心に照らし、イエスのみ苦しみの恵みを余すことなく受け取りましょう。
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