日本キリスト教団

 
 
2024.03.03
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
『赦された失敗』
マルコによる福音書
14章27-31

 昨年9月に私の知り合いの牧師が、旧約聖書の『箴言』の言葉を紹介する 『これからを生きるあなたへ』(小林よう子著、教団出版局)という本を出版 した。「慈しみとまことは罪を贖う。」(箴言16:6)という聖句に添えられ た文章が印象に残った。著者は、小学校の先生だった人だ。とある小学校のあ るクラスで、ある一人の友達のことを揶揄する発言をした生徒に、担任の先生 はその間違いを指摘した。それだけでなく、ならばどうすればよいのかを簡潔 に話したという。その先生の言葉を聞いて、その生徒は自分の間違いを抵抗な く振り返ることができるようになり、過ちを認めることができるようになった という逸話を紹介している。

 最期の晩餐の後、イエスは、弟子たち、そしてペトロがこれから罪過ちを犯 すことを知っておられ、それを告げられた。イエスは、弟子たちを愛しておら れたので、過ちを犯したとしても、罪を振り返ることができるように、新しい 歩みを始めることができるように願っておられた。

 それでイエスは、弟子たちに言われた。28節「わたしは復活した後、あな たがたより先にガリラヤへ行く。」弟子たちにガリラヤに来るようにと告げら れた。イエスは、自分を見捨て裏切った弟子たちを待つと言われる。ガリラヤ とは、弟子たちがイエスに招かれた場所。イエスは、再び新しい歩み、関わり を始めると告げられた。罪を犯したとしても、イエスにとって弟子たちも、ペ トロも、いつまでも弟子であり続けるのだ。イエスの真実な方であることを改 めて思わされる。

 イエスが弟子たちはイエスに躓くと言われたのに対して、ペトロは決して躓 かないと誓った。もし、ペトロの誓う通りにイエスにどこまでも従うことがで きたのなら、イエスはペトロをたいそう褒めてくださったことだろう。しかし、 こういうことで留まっているなら、イエスの思いを半分しかわかっていないの 2 だ。イエスの弟子たちへの思いは、もっと深いものだった。

 私達は往々にして、その人が何をできるか、何ができたかということをもっ て人を評価する。しかし、イエスはそうではない。人が何をできたか、出来る かということだけでは評価されない。それは、神様の見方ではない。

  神様は、私達一人ひとりを造られた。神様にとって、一人ひとりが今ここに いるということ、存在自体がいとおしい。この思いは、人の振る舞いや、罪過 ちを犯したかどうかということに左右されることはない。人の成すことよりも もっと深い次元で、神は私達を見ておられる。

  だから、私達が罪や過ちを犯したとしても、その罪過ちを上回って神は一人 ひとりを受け容れてくださる。義しいことを喜ばれるイエスはペトロの罪過ち を嘆きながらも、しかしその真実において、ペトロの存在を愛おしまれ受け容 れておられる。これが、罪の赦しということだ。放蕩息子の譬えで、放蕩息子 の父親はどういう思いで息子を喜んで迎え入れたのだろうか。イエスがペトロ を赦すこの時も、同じ思いだっただろう。

 私たちは、人を評価するその目で、自分自身を評価することもある。何がで きるか、出来たかという目で、自分自身を振り返り、自分自身を裁く。そうや って自信を失ったり、自分を卑しめてしまうことがありはしないだろうか。

 私 達は、体が不自由になったり、病気になったり、年を重ねたりして、何もでき なくなったりもする。そして、そういうことで、一人ひとりの生きる価値がな くなってしまうのだろうか。

 数年前に起こった障がい者施設での事件では、一度に多くの人が命を奪われ た。犯人は、その人たちは生きる価値のない人たちだから殺したと言った。し かし、病院や施設にいる人たちも、私たち一人ひとりは何かをなすことができ なくなっても価値ある尊い存在だ。

 イエスは、十字架にかかり復活した後、弟子たちをガリラヤで待つと言われ る。これから過ちを犯すペトロを、イエスは待つと言われる。ペトロはいつま でもイエスの弟子であり続ける。

 愛隣こども園
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