日本キリスト教団

 
 
2024.03.10
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
『ユダの悲劇』
マタイによる福音書
26章47-56節

 イエスは、弟子たちが裏切ることを予告された。そして、弟子たちはイエス が捕らえられると皆逃げ出した。弟子の中でも特にイスカリオテのユダは、ユ ダヤの指導者たちと通じてイエスを引き渡す役目を買って出た。ユダに対して は特に厳しい目が向けられてきた。「ユダの悲劇」とも呼ばれる。

 イエスを裏切ったのは、他の弟子も同じことだった。しかし、ペトロは、裏 切った後もイエスの弟子として再出発したが、ユダにはそれができなかった。 自ら命を絶ってしまった。この二人の違いは、どこにあるのかと問われてきた。 それは、裏切ったその後に、イエスの愛を知ることができたか否かの違いだと 言われる。ペトロはイエスの愛は失われたと勘違いしていたが、何があっても イエスの弟子達への愛は失われることはなく、再びイエスの愛を知ることがで きた。しかし、ユダにはそれができなかった。

 弟子たちは、イエスの愛に留まることができないで、イエスのもとから逃げ 出し、イエスの愛を裏切ることになった。愛を裏切ることが罪の業となった。

  ヨハネ福音書5章で、イエスは38年間ベトザタの池のほとりにいた病人を 癒された。そして、その人と再会した時、「あなたは良くなったのだ。もう、 罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」 と言われた。イエスの言う「罪」とは何のことなのだろうか。イエスは、病人 が38年間も神の愛を知らずに無気力に過ごしてきたことを、罪と言っておら れる。そして、再び罪を犯すな、神の愛を裏切るなと言っておられる。ヨハネ 福音書では、神に愛されていることを拒絶すること、神の愛を裏切ることが罪 だと言われている。受難節にあって、ユダの裏切りを思い、私達のことを振り 返って、神の愛を見失い裏切ることで良くない事態を招くことがないようにと 思わされる。  
 
 ユダは、イエスに接吻することをイエスを捕らえるための合図とした。接吻 は、人への愛や親しい感情を示す動作だ。それをもって裏切りをなすとは、と ても大胆な行為だと思う。イエスは、自分を裏切る人の接吻を受けて、どのよ うな心境だったのだろうか。どれほど哀しんでおられただろうか。

 ユダの接吻を受けて、イエスは、それでもなお「友よ、しようとしているこ とをするがよい」と言われた。裏切りがなされることを知りつつも、「友よ」 私の仲間よ、と言われる。26章23節には、イエスがユダの悪い役回りを思 い、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のために よかった。」とユダに同情しておられる。裏切りを悔いることになるユダと哀 しみを共にしておられる。

 神学者バルトは、『イスカリオテのユダ』を著して、このイスカリオテのユ ダが神の救いにあずかっていると説いた。救い主を死へ追いやった大きな罪を 犯したのだが、神に赦されていると説く。バルトの論点は、保守的な考え方の 人々にとっては、大きな論点となっている。私は、イエスの十字架とよみがえ りは、文字通りにすべての人の救いなのだから、どんな大きな罪を犯したとし ても、すべての人に救いがあると信じる。

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