日本キリスト教団

 
 
2024.03.17
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
『シモンが背負うもの』
マルコによる福音書
15章16-22節

 エルサレムでは金曜日に修道士を先頭にして大勢の人たちが、イエスが十字 架を背負って歩まれた道(ヴィア・ドロローサ)をたどる行列をする。十字架 を背負うイエスが母マリアと出会った場所、ベロニカという女性がイエスの顔 の汗をぬぐった所、イエスがよろめき倒れた所、そして、クレネ人シモンが十 字架を背負った所などなど、14の地点を定めて祈りつつ重荷を背負うイエス と共に歩んでいく。

 エルサレムでイエスは捕らえられ、裁判にかけられて有罪となった。鞭打た れて十字架を背負わされて、刑場ゴルゴタまで歩ませられた。弱り果てたイエ スは、途中で何度も倒れた。そして、今日の箇所では、クレネ人シモンがイエ スの代わりに十字架を背負わされたという。

 クレネとは、エジプトの海沿いの町。そこから一年に一度の巡礼でエルサレ ムに出てきたのだが、たまたま十字架を背負うイエスの行列に出くわしたのだ ろう。兵士が命じるので逃げられず、どうしようもなく十字架を背負わねばな らなくなった。弱り果てたイエスには嬉しいことだったかもしれないが、シモ ンにとってみれば、思いがけない重荷となっただろう。

 イエスには、12人の弟子たちがいた。ならば、弟子達こそイエスの代わり に十字架を背負うべきだったのではないか。しかし、イエスを見捨てて逃げて 隠れていた。それで、イエスとは全く関係のない人シモンが、イエスの十字架 を背負った。「何でこの人が?!」ということだ。

 弟子たちとシモンを敢えて関係づけようとすれば、その名前、「シモン」と いう名前は弟子ペトロの名前でもある。「シモン」という名前はギリシャ語の 名前、ヘブライ語ではシメオン。「神は聞かれる」という意味。昔、エジプト で苦しんでいたユダヤの人々の叫びを聞かれたように、神は十字架を背負う人 の悲鳴を聞かれるのだ。慈しみをもって顧みてくださるのだ。このシモンのこ とを「アレクサンドロとルフォスの父」と言われているのは、後日、シモンが キリストの救いにあずかったことの証拠だとされている。

  30年くらい前に、名古屋の盲導犬協会で盲導犬に引かれる体験をした。目 隠しをつけて数歩歩んだだけだが、盲導犬に引かれる盲人の気持ちが少しは体 験できたのだろう。同じように健常者が体に重りをつけたり、車いすに座った りして、体の不自由な人のような体験をすることをしている。一人ひとりのこ とを身近に感じるようになるそうだ。十字架を背負ったシモンは、イエスを身 近に感じるようになったのではないだろうか。

  教会では、「強いられた恩寵」という言い方がある。例えば、礼拝で証し (話し)をすることになったり、自分には無理だ難しいと思うことでも、神様 に祈りつつ少し踏ん張ってみると、苦しみを乗り越えて良い経験となることが ある。聖書の言葉をそれまで以上に身近に受け止めるようになったり、聖書の 言葉を裏表から読むようになったりする。そういう恵みを見出すこともある。 信仰生活に無理をする必要はないが、アスリートのように日々向上を目指すな らば理解できることだと思う。

  とにかく、イエスの十字架を背負ったシモンは、イエスの弟子になった。苦 しみを共にして、イエスと共に歩む人になるように導かれた。シモン、「神は 聞かれる」という名前。私達の苦しみの日に、重荷を背負うイエスが共におら れる。ご自分とは全く関係のない罪人のために、私達のために重荷を背負われ る方がいる。

  鞭打たれたイエスは、弱り果てていた。そして、刑場に向かって歩まれる。 イエスが十字架を背負って歩まれた道、ヴィア・ドロローサ(苦難の道)は、 苦しむ人がイエスの救いを見出す所だ。

 愛隣こども園
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