今日は、イエスがエルサレムに行き、棕梠の葉を手にした人々に歓迎された 棕梠の主日。今日から受難週となる。イエスが十字架にかけられたことを改め
て覚えたい。
十字架にかけられる前にイエスは鞭打たれ、肉体的に弱り果てていた。そし て、十字架に挙げられて、命尽きるまで断末魔の苦しみを苦しみ抜かれた。私
達罪人を救うために、どれほど苦しまれたことか、イエスの愛の深さを思う。 イエスの苦しみは、肉体の苦しみであり、大失敗を犯したと人々から侮辱され
る精神的な苦しみでもあった。
身も心も弱くされる中に、イエスは神に向かって「わが神、わが神、なぜわ たしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。神に見捨てられたと思うよう
な苦しみであれば、その苦しみの大きさを思わされる。
そして、このイエスの叫びの言葉は、詩編22編の言葉を暗唱していたのだ と言われている。ユダヤの男の子は、詩編150編を暗記して一人前と認めら
れる。イエスもユダヤ人の一人であり、死に際しても詩編の言葉をそらんじて 神に心を向けておられたのだ。もしも私達なら、苦しみにあう時に聖書の言葉
を思い出すだろうか。苦しみの中にあるイエスを、神の言葉が支えていた。
創世記32章では、昔、青年ヤコブは夜、神の使いと格闘した。そして、こ れからはイスラエルと名乗れと言われた。「イスラエル」という名前の意味は
詳しくはわかっていないが、「神と格闘する人、神に向かう人」という意味だ と言われる。つまり、神の民イスラエルは、神に向き合って、神と共に歩む民
であるべきだというのだ。そして、イエスは十字架にかけられながら、神の民 の一人として神に向き合っておられたのだ。
このイエスの姿を見て、百人隊長はイエスを讃えた。十字架上で大きな苦し みを全身で受け止めるイエスの姿に感動し、それで「この人は神の子だった」 とイエスを讃えた。
この場面を想像するに、この百人隊長は十字架の下から十字架にかけられて いるイエスを見上げている。そのイエスは、必死に神を見上げている。百人隊 長の視線は十字架上のイエスで止まっていたが、もっと先に延ばすなら、イエ スが心を向けている神へと至る。百人隊長はイエスを立派な人だと讃えるが、 イエスのその先におられる神を讃えるなら、神への信仰告白である。私達は十 字架の上のイエスが最期まで神と向き合ったこと、神がイエスを強めてくださ ったことを覚えたい。
ユダヤの人々にとって最も善いことは、シャロームであることだと言われる。 シャロームは平和とも言われるが、神と共にいることを言う。どんな苦しみの 中にあっても、神が共にいることが何よりも良いことなのだ。イエスは今、十 字架にかけられている。とても大きな苦しみを耐えている。そして、そのイエ スは神に心を向け、神に向き合い、神と共にいるのだ。十字架にかけられても 「もうだめだ」と諦めてしまわず、神に向かって苦しみの意味を問いかけてい るのだ。
百人隊長は、十字架上のイエスを見上げた。私達は、このイエスを通して神 へと心を向けて神を知る。イエスは神へと至る道であり、真理であり、命であ
る。神は、このイエスという人を通して、すべての人のためにへりくだり苦し む姿を通して、私達の救いをもたらされた。
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