エルサレムからエマオへと、イエスの弟子だった二人が歩んでいた。二人は 過ぐる日にイエスに出会い、イスラエルを救うのはこの方だとイエスに期待し
ていた。しかし、今、イエスについてわからないことばかりで、疑いと失望の 中にいた。
こともあろうにイエスは、十字架で死んでしまった。しかし、よみがえった と言う人がいる。二人は、イエスについて見たこと聞いたことを基にして、イ
エスは死んでからどうなったのかと論じながら歩いていた。二人が思い至るあ らゆることをあれこれ語り合い、すべてを総動員してイエスを理解しようとし
ていたが、全くわからないままだった。自分たちの思いや考えが胸の内にあふ れるが、しかし疑いと失望の出口は見つからなかった。
この二人にわかっていたことは、イエスは死んだのだし、もう従うことはな いというたった一つのことだった。二人はイエスがいないエルサレムから、故
郷へと帰っていたのではないだろうか。人生の挫折を経験し、諦めや悔しさを 心に秘めていただろう。イエスと共に徒に過ごした日々を振り返り、疲れた心
で歩んでいるのだろう。
すると、この二人の弟子にイエスが近づかれ、共に歩まれた。イエスは神の もとからこの世に来られ、私たちのいるこの世を歩んでくださった。天から地
に下って来られ、この世の欲望や罪、喜びや悲しみ、疑いや失望が溢れるこの 世を歩まれた。
そして今、生と死の隔ても乗り越えてよみがえり、二人に近づき共に道を歩 んでくださる。この二人にはイエスだと分からなかったが、イエスは聖書の言
葉を語り、神のみ心を語って、この二人の心の目が開かれるように促してくだ さった。この二人には、聞く耳があればよい。
同様に、イエスは今も、私たちの心の目が開かれるように、私たちの心に語 りかけておられる。私たちはそのイエスの姿を見る目、イエスの声を聞く耳を 持ちたい。イエスが、どんな時も疑うことなく信じるように促してくださり、 共に歩まれることを信じていよう。
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