日本キリスト教団

 
 
2024.04.14
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
『夕暮れになって』
ルカによる福音書
24章28-35節

 イエスがよみがえられた後、イエスの弟子だった二人がエマオを目指して歩 んでいると、イエスが近づかれて話しながら歩まれた。二人の心の目が開かれ るようにと聖書の言葉を思い出させながら、イエスが十字架にかかりよみがえ ることになっていたと説明された。しかし、この二人はそれを理解できなかっ たし、共に歩む人をイエスだとはわからなかった。夕暮れ時になって宿屋に入 り、夕食を始めた頃、二人の心の目が開かれて、目の前の人がイエスだと分か った。こうして二人は、よみがえったイエスと出会った。

  人が人を理解することは大切なことだが、難しい一面もある。福音書を見る と、イエスという人は、ある人々には歓迎されながらも、ユダヤの宗教指導者 や政治指導者、民衆に理解されなかったし、大いに論争したことが記されてい る。家族にとっても同様で、イエスが12歳の時、母マリヤは一緒にエルサレ ムに上ったイエスを見失い、神殿でイエスを見つけるが、自分の父の家にいる のだというイエスの言葉を理解できなかった。イエスから3度も弟子たちに死 と復活を予告するが、理解されなかった。人々に理解されないイエスは次第に 世の人々の憎しみを買い、十字架にかけられるという悲劇に見舞われた。

 エマオを目指す二人の弟子は、イエスの言葉、聖書の言葉をもってしてもイ エスの十字架と復活を理解できず、イエスから「物分かりが悪く、心が鈍い」 と言われてしまった。イエスの十字架と復活は神の定めたこと、そしてイエス は自ら進んでその道を進んだのだが、この二人には理解できなかった。人が人 を理解するのは言葉や理屈だけでは難しいということだろうか。夕暮れ時にな り、なお先に進もうとするイエスだったが、宿を取り、夕食の席に着いた時、 目の前の人がパンを裂く所作に、二人の弟子はやっとイエスだと気が付いた。

  この二人が目の前の人をイエスと気づき、よみがえりを信じるようになった 時、その時が夕暮れ時だったということに何か示唆深いものを感じる。一日を 過ごした満足や不満足、疲れを感じる時間。そして、一人ひとりが弱さを持つ 人間であることを思い出す時間。家族の愛情や心赦せる人との交わりを懐かし く思う時間。一日の終わりに羽織袴を脱ぐ寛ぐ時間ではないだろうか。夕闇に 低く輝く金星は、一番星と呼ばれる。夕暮れ時はあたりが暗くなり、今まで見 えなかったものも見えてくる。それは、長い道のりを歩んだからこそ、今まで 見えなかったものが見えてくるということかもしれない。

 人と人とが理解し合うこと、民族や国同士が理解し合うことができれば、世 界は平和になるだろう。死からよみがえったイエスが共にあって、私たちの思 いを超える平和をもたらしてくださることを願う。そして、理屈ばかりが先走 るのではなく、羽織袴を脱いで、一人ひとりが弱さのある人間同士として出会 うこと、考えること、祈ることによって、平和がもたらされるのではないだろ うか。

 愛隣こども園
宮城県仙台市青葉区五橋1-6-15
〒980-0022 ℡:022-222-3242