日本キリスト教団

 
 
2024.04.28
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
『明日のいのちがある』
使徒言行録20章
7-12節

 使徒パウロは世界中の人々にキリストの福音を宣べ伝えるために、小アジア (トルコ半島)やギリシャの町や村を巡り歩きました。今日の聖書の箇所では、 3回目の伝道旅行の際に、トルコ半島の西端の町トロアスで伝道していた時の ことです。

 パウロが活動した時代、キリスト教の初期には、教会というのは、個人の家 庭に信者たちが集まって礼拝をするものでした。使徒言行録2章には、信者た ちは「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神 を賛美していた」(46 節)とあります。このトロアスでも、週の初めの日(日 曜日の前日の夕方、ユダヤでは一日は夕方から始まる)に個人の家庭に集まっ て礼拝をしています。この箇所には、パンを裂くこと(今日の聖餐式)、説教、 夕方の食事がなされ、再びパンを裂くことがなされていたとされています。

  「週の初めの日」(日曜日)に礼拝に集まっているというのですが、この時 代は、この日はまだ休日ではないので、信者たちは普段通りに一日の仕事を終 えて集まったのです。青年エウティコも仕事を終えて集まり、一日の疲れが出 たのか、いつしか眠ってしまい、窓から落ちてしまいました。パウロが駆けつ け、「まだ生きている」と言い、死んでしまった青年を生き返らせました。パ ウロは他の町でも癒しの業をなしています。神の力を用いることができました。 死んだと思われたエウティコが生き返り、人々は「大いに慰められた」(12 節)のです。

  「一寸先は闇」。エウティコの身に起きたことは、私たちの身に起きること かもしれません。私たちの日常を振り返れば、私たちも身の危険と紙一重とい うところを生きているのではないでしょうか。しかし、パウロによって神はエ ウティコをよみがえらせ、人々を大いに慰めました。

 今日の箇所は、私たちに は身の危険はありますが、そういう私たちに神が共にあって、どんな時も平安 2 と慰めがあることを語っています。 今日の箇所は、「大いに慰められた」という言葉でまとめられています。「大 いに」という言葉を、口語訳聖書は「ひとかたならず慰められた」、非常に慰 められたと訳しています。どれほど深く慰められたことだろうかというのです。 身の危険から逃れることのできない私たちですが、私たちは神の御手の内にあ り、神から与えられる大きな慰めの中に生きることができるのです。

  エウティコがよみがえるというこの出来事は、パンを裂くこと(聖餐式)を している時のことでした。パン裂き(聖餐)というは、十字架にかかったイエ スの体と血、パンとぶどう酒にあずかるのですが、それは聖餐の場によみがえ ったキリストが共におられ、私たちによみがえりのいのちに生きるように招い ていることを表しています。まさにエウティコがよみがえったことは、よみが えりの主が私達と共におられることを象徴する出来事です。

  私たちの命は、病気や事故や、様々なことによって終わりを迎えます。今日 (今)生きている人は、明日(これから)も生きていることを願うものです。 それで、死は生きていることの中断だと思わされます。非情なことだと感じま す。けれど、私たちはよみがえったキリストの命に生かされています。それで、 体の命が今日終わったとしても、神の前には今日も明日も生きています。私た ちが終わることはありません。私たちには、決して終わることのないいのち、 明日のいのちがあるのです。よみがえりの命に生かされたエウティコによって トロアスの教会の人々が大いに慰められたように、このことは私たちにも大き な慰め、励ましです。

  イエスは「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」(マタイ 福音書5:4)と言われました。私たちの身に迫る心配なことが様々にありま す。それを大いに悲しみましょう。そして、神様に大いに慰められたいです。 よみがえられた主が、神様が、いつまでも共におられることを信じていきまし ょう。

 愛隣こども園
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