盲人バルテマイは、イエスが近くに来たことを知り、大声で叫びました。「ダ ビデの子よ、憐れんでください」と。人々は押しとどめようとするのですが、イ
エスが招いていると知ると躍り上がってイエスのもとに来ました。そして、イエ スが「何をしてほしいのか」と問いかけるので「目が見えるようになりたい」と
答えると、イエスは癒され見えない目を開いてくださいました。一途な思いでイ エスを信じ期待するバルテマイに、イエスは応えてくださいました。
バルテマイは、繰り返しイエスを「ダビデの子」と呼んでいます。けれど、イ エスご自身は、12章35節以下の箇所で自分のことをダビデの子と呼ぶのは
ふさわしくないと言われます。ダビデ王はユダヤの国を繁栄に導き、最も広い領 土を得、軍隊を強くしました。ユダヤの国の理想の王でした。武力をもって他国
を圧倒し、そのようにして平和をもたらす王でした。そういう王こそが救い主だ とユダヤの人々は思っていました。
だからこそ、人々の通念、救い主はダビデの子ということなので、バルテマイ はイエスを救い主と思うので「ダビデの子」と呼ぶのです。しかし、バルテマイ
がイエスに求めたことは、武力によって人を圧倒する王には似つかわしくない ことでした。弱い人、困っている人を憐み慈しむということでした。これこそが、
バルテマイが思っている救い主なのです。
今日の箇所の直前で、イエスの弟子たちが心得違いをしていたと記されてい ます。弟子たちはイエスが王になる時には自分たちを右大臣左大臣にしてほし
いと求めたのですが、弟子たちの心得違いを知ってイエスは、他人に仕える心を 持つように諭されました。この弟子たちの抱いていた思いこそ、ダビデの子に
人々が託していた思いだったです。
そして、今日のバルテマイの出来事の後に、イエスはエルサレムに入場します。 イエスはロバに乗って群衆の中を歩まれました。群衆はダビデの子を迎えるの
ですが、弟子たちと同じように心得違いをしているのです。イエスはロバに乗る 王、つまり武力によらない平和をもたらす王なのです。
バルテマイはイエスを旧態依然として「ダビデの子」と呼びこそすれど、彼こ そがイエスのことを理解していた、本当のイエスを見ることができていたので
す。バルテマイはイエスを「ダビデの子」と呼ぶ以外の呼び方を知らなかったの でしょう。しかし、イエスは彼の思いを聞き出し、その思いを信仰と呼んでくだ
さり、慈しんでくださいました。彼は古い呼び名を用いますが、イエスは彼の声 を聴き、彼の話を聞きたいのです。そして、人に仕え慈しまれる主イエスは、そ
の心を受け止めてくださいます。
心が大事だということを思います。呼び名は古く、やり方は古くても、イエス は「何をしてほしいのか」と、その人の心を受け止めてくださいます。私達がで
きることと、できるように一生懸命になすことの尊さを思います。イエスは十字 架にかかってくださいました。罪人である私たちのために、神の目には的を外し
ている私たちのために、へりくだり十字架にかかってくださいました。
先日、花の絵と詩を書く星野富弘さんが天に召された。白いカトレアの花に添 えた『かあちゃん』という題の作品があります。母親に向けて言う呼び方は様々
です。星野さんは、「お母さん」「おふくろ」ではなく「かあちゃん」と呼びたい と言うのです。寝たきりの星野さんのベッドの横に、いつでもかあちゃんがいて
くれたそうです。絵を描く時は絵具を溶いてくれたそうです。呼び方は様々あっ ても、母と子の心のつながりはかけがえがなく、誰にとってもとても深く変わら
ないものだと思います。
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