日本キリスト教団

 
 
2024.06.09
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
『小犬が希望』
マルコによる福音書
5章35-36節

 ヤイロという会堂司が、病気の娘を癒してほしいとイエスに助けを求めました。会堂司 とは、人々に信頼され、ユダヤ教の会堂を管理する人です。ユダヤ教での立場がありまし たが、恥も外聞も捨ててイエスに助けを求めています。しかし、そんな大事な時にもかか わらず、イエスは他の女の人を癒すために立ち止まっています。ヤイロは待たされてしま いました。そして、会堂司の家の人が娘が死んだと告げに来ました。すべてを捨ててイエ スに助けを求めているのに、なんということでしょう。ヤイロは父親として不甲斐なく、 最愛の娘が死んでしまって絶望の淵に立たされてしまいました。

  こんな時に、イエスはヤイロに言いました。「恐れることはない。ただ信じなさい。」も うおしまいだ。すべてが終わったのだと思っているヤイロに、イエスは娘が助かると信じ るように促されました。イエスは弟子の3人を連れて、ヤイロと共に娘がいる家へと歩ま れました。両親と共に娘の部屋に入っていきました。イエスは、娘を生き返らせてくださ いました。父親ヤイロは、その目でイエスが娘を癒されたことを見ました。イエスは救っ てくださったと、信じるようになりました。余りに残酷な出来事に、信じることなどもう できない。そう思っている人とイエスは共に歩まれて、娘のところに行き、救われたこと を見せてくださいました。イエスは、「信じなさい」と言うだけでなく、信じられなくなっ ている人と共に歩まれます。

  振り返って、私たちが信じるとはどういうことでしょうか。自分一人で信じているので しょうか。誰かに助けてもらって信じることができているのではないでしょうか。私たち の信仰生活の中には、疑いの心が沸き上がる時もあるでしょう。神の存在を信じられなく なる時や、不信仰な思いになる時、信仰の邪魔が入ることもあるでしょう。しかし、そん な時があるのに、案外自分は信じているのだと思っているのではないでしょうか。

 信仰は、信じられない時にこそ求められています。信じられない時こそ信じる時です。 信じていないと思う時にも、イエスを信じて、委ねます、お任せしますとイエス胸に飛び 込むのです。信仰のない私を、どうぞ助けてくださいと祈るのです。

  イエスは、いつも私たちと共におられます。信じられない人と共に歩んでくださり、信 じることへと招いてくださいます。私のもとへ来なさいと呼びかけておられます。私たち は、教会で、信じる人々の群れの中にあって信仰を吹き返すのです。信じられない時も教 会にいて、イエス様と共にいることが助けになるのではないでしょうか。

 愛隣こども園
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