イエスの弟子たちが、イエスに問いかけました。一人の盲人を見て、「この人が目 が見えないのは、誰が罪を犯したからですか」と。目が見えないのは罪の報いであ
り、誰かの罪のせいだというのです。しかし、イエスは誰の罪によるのでもない。 神の御業がこの人に現わされるためだと答えました。目が見ないことを悪いことだ
と決めつけていません。むしろ、神の御業が現わされるため、神の祝福へと導かれ るためだと言うのです。
弟子たちとイエスは、目の見えない人を見る見方が大きく違います。弟子たちは、 罪を犯したから、「~~~だから」と言います。過去に何か良くないことをしたから
と言って、人を過去に縛り付けてしまいます。それでは人は何も罪を犯してはいけ ないし、何一つ失敗してはいけないことになります。
しかし、イエスは神の御業が現わされるために、「~~~ために」と言われます。 これから神の良き導きがあると言うのです。目が見えないということを通して、こ
れからこの人が良いことを経験すると言われるのです。「~~~だから」ではなく、 「~~~のために」なのです。過去よりも、これからに目を向けているのです。
ですから、イエスは人が目が見えないことを悪いことばかりではないと思ってい るようです。目が見えないことは苦しみであり、悪であると弟子たちは決めつけて
いるようですが、イエスはそうではないのです。
目が見えない、このことを広く捉えれば、それは私たち人間の弱さを象徴してい るということではないでしょうか。つまり、色々なことができない私だから、神の 御業がこの私に現わされていると信じることができます。罪、失敗、弱さは、私に いろんなことを引き起こしますが、しかし、イエスは、それは神の御業があなたの 身に現わされるためだと言われるのです。神の慈しみの眼差しが私に向けられてい ると知る人が、神のみ心を問いつつ歩む人が、自分の弱さを通して神のみ心に導か れていることをいつの日にか知るのです。
神のみ心は、一人ひとりに異なります。神様が一人ひとりをこの世に歩ませる目 的が異なります。神の目的、~~~のためにがあるのです。神が決められた一人ひ
とりの生きる目的があるのです。神様は、一人ひとりに生きる道を備えておられま す。
もちろん、私たちは自分自身で自分の生きる目的を知っていると思っています。 しかし、そういう私たちをよそに、神様は、私達一人ひとりの生きる目的を定めて
います。それは何なのかは、神のみぞ知ることです。
もしも、自分が自分の生きる目的を知らないとしても気弱になることはありませ ん。神様は、「私が生きる目的」を定めておられるからです。神様にとっては、どの 人にも、生きる意味があるのです。
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