私たちは、困っている人のために寄付(募金)をします。今日でもユダヤで は、幼い子どもに親がお金を渡して、実際に募金箱にお金を入れる体験をさせ
るそうです。そうやって、寄付をすると気持ちが良いことを体に覚えさせるの です。自分が得たお金は、すべて自分が得たものとは考えません。世界の多く
の人の中の一人として、巡り巡って自分が得ることになったのです。神様に造 られた多くの人の中の一人として、共に生きる人々に対する責任があるのです。
ユダヤでは、寄付のことをヘブライ語で“ツェデク”と言います。“ツェデク” には、「正義」「恵みの業」という意味もあります。具体的には、この世には身 分がありますが、王様、家来、奴隷だとしても、一人ひとりが置かれた所で少 しでも困らないようにする、生きる喜びをもって生きられるようにするという 意味です。
王様は、その国の人々に平和をもたらすのが神様から託された役目です。旧 約聖書では、王様は油注がれて、神様からの特別の使命を帯びている“メシア” だと言われていました。メシアである王様は、正義(ミシュパート)と恵みの 業(ツェデク)を行い、平和をもたらします。正義(ミシュパート)は、神こ そ絶対者(神)であることを示し、真理を明らかにし不正をただすことです。 そして、恵みの業(ツェデク)は、上述の通り一人ひとりが困らないように慈 しみを示すことです。このようにして、平和がもたらされるのです。ですから、 寄付(ツェデク)をすることは、神様が立てた王様の代わりになって、この世 に平和をもたらすということです。
平和をもたらす王様は、メシア(油注がれた人)です。そして、新約聖書で はイエスはメシアです。十字架にかかる救い主として、神こそ神であること (ミシュパート)を示し、世の人々に神の愛(ツェデク)を示され、この世に 救いと平和をもたらされます。ヨハネ福音書では、私たちが互いに愛し合うこ 2 とによって、平和があることを教えられました。今日の言葉では、互いに愛し 合うのが掟だと言っておられます。イエスは私たちに、愛することを命令して います。
神は、私たちをずっと愛し続けておられます。ですから、神に愛されている 私たちは、人を愛そうとしても不十分に思えたり、愛することができないと思 えるとしても、それでおしまいではありません。神に愛されているのですから 赦されて、愛することを再び始めるのです。繰り返し、繰り返し、始めるので す。 神の愛に応えるという愛は、終わることがありません。弱く小さな者でも、 終わることのない愛に励みながら、神様のみ心、平和を作り出していくことが できれば嬉しいことです。ほんの少しの寄付でもいい。ほんの少しの優しさで もいい。赦されながら、ツェデクをしていくのです。
もしもイエスの教えが倫理道徳であれば、教えを実行できないなら、それで おしまい、非難を浴びても仕方ありません。けれど、イエスの教えは倫理道徳
ではありません。神が私たちを愛していることから、イエスの教えは始まって います。私たちは、神に愛され赦されながら、繰り返し神の愛に応えるのです。
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