50 年前、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)の派遣でネパール・チベッ トに派遣された岩村 昇医師は、重度の患者を山麓の村から大きな町の病院に
連れていくことにした。山道を歩いて 4 日間の道を、若い一人のシェルパが病 人を背負って運んだ。町の病院に到着して岩村医師が、シェルパに 4
日間の賃 金を渡そうとしたが受け取らなかった。どうしてかと尋ねると、「みんなで生き るためさ」と答えてその場を去ったという。岩村医師にとってこの出来事は、開
発の遅れた国でこそ聖書の精神が生きていることを垣間見させる、とても印象 的な出来事になった。わが身を振り返って、文明の進んだ国では、利己的な思い
を持つ人が多いのではないかと思ったそうだ。
病人を背負い続けて、お礼はいらないという人がいた。「わたしたち強い者は、 強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」(1-2節)
もう一つ別の話。名古屋の教会で働いていた頃、ある信徒がアジア保険研修所 という NPO の職員で、インドに保健衛生活動の視察に行くというので同行し
た。インドの東部、マドラス(今のチェンナイ)に行き、キリスト教の某 NPO のリーダー(壮年男性)の家に泊めさせてもらった。
翌日の朝食の後、雑談をしていると、今朝起床してから聖書を読んでいたよう だが、今朝はどの聖句だったかと聞かれたので、聖書日課に従って「わたしたち
強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではあ りません。」(1 節)だったと答えた。さらに、その聖句の話をしたが、終始難し
い顔をしていた。
私は日本からお土産を持ってきていたことを思い出して、その場で渡した。色 とりどりの折り紙とプラスチックのパズル、1 つ 500 円程度のもの。その人は満 面笑みになり、夫人と一緒に有頂天だった。私はこの光景に、この人たちはイン ドの人たちであり、私は日本人であるということを思わされた。そして、豊かな 国の人は、何をすべきなのだろうかと思わされた。その後、電気も水道もない村 やスラム街に行って人々の暮らしぶりを垣間見た。
イエス様は言う。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者 と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、 あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に 仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人 の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自 分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:42-45)
神を知らない異邦人は力で弱い人たちを押さえつけているが、神を知るあな た方はそうであってはならない。十字架にかかって罪人に仕えたイエスのよう に、イエスに従って仕える人になりなさいと言われる。そして、神様は人に仕え るこのイエスをよみがえらせ祝福された。そのように、仕える私たちも神は祝福 し復活の力に満たしてくださる。
十字架にかかり仕えるイエスは、神様から慰めを受けた。大きな重荷を背負い、 苦しみの中に身を置いたのだが、そのイエスを神は深く慰めてくださった。その ように、隣人を愛し仕える私たちをも、神は慰めてくださる。神は隣人を愛し仕 える私たちを認めてくださると信じるなら、私たちの心は支えられる。私たちの 神は、「忍耐と慰めの源である神」と言われている。神様から、私たちは忍耐す る力と慰めを受けることができる。イエス・キリストを共に仰いで、私たちは力 を得、慰めを得る。
パウロは、ローマの信徒に宛てて手紙を書いているが、その終わりに信仰生活 の心構えを説いている。今日の聖句は、その最後の箇所だ。最後に至るまで、十
字架にかかったイエスを、よみがえりの主に励まされようと勧めている。
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