日本キリスト教団

 
 
2024.09.08
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
『傷ついた癒し人』
ペトロの手紙 Ⅰ
2:18-25節

 旧約聖書のヨブ記は、大勢の子どもや家族を持ち、たくさんの財産、家畜を 持っていた富豪ヨブがすべてを失い苦しみに遭うが、それでも神への信仰を失 わなかったと記している。私たちは苦しみに遭うと、何とか逃れようとし、苦 しめる人から離れようとする。神の前に立ち続けたヨブの信仰を称えたい。

 今日の箇所は、新約聖書の時代の召使(奴隷)に対する言葉だが、それにし ても認めがたいことが書かれている。無慈悲な主人にも従えという。これは、 私自身のこととしても、隣人のこととしても、認められないし、あってはなら ないことだ。古代の人々との認識のずれを感じる。しかし、このような認めら れないような言葉の後に、イエス・キリストの苦しみは、私たちが認められな いような不当な苦しみであったことが指摘されている。イエス・キリストの苦 しみは、私たちの常識を大きく超えて、それほどに耐えがたい大きな苦しみで あったということを思わされる。イエスは、とてつもなく大きな苦しみを耐え られたのだ。私たちのため、罪人のために。自分に鞭打つ主人のような血も涙 もない罪人のために。

  21節以下は、このイエスの後に続こうと呼びかけている。尋常ではない勧 めだと思えるが、しかし、不当な苦しみをしたイエスの傷は、私たちの苦しみ を癒し励ますのだ。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされ ました。」(24節)イエスの傷が、苦しむ私たちを支える。あのイエスの苦し みは、私が今苦しんでいる苦しみなのだと思うなら、それは私たちを力づけ る。苦しむ人は、苦しむ人に共感する。自分一人の苦しみではないと思うよう になる。

 パウロが記したコリントの信徒への手紙Ⅱ 1章には、信仰のゆえに世の 人々から苦しめられ困難な状況にある諸教会の苦しみが、教会同士の励まし慰 めになっていると記している。傷ついたキリストのもとにある人々は、お互い の苦しみによって結ばれている。そこに、希望を見出している。

  世には、当事者の会という集まりがある。同じ病気の人たちが集い、不安や 苦しみを語り合うことをしている。また、ある日突然、事故や事件に巻き込ま れて犯罪の被害者にさせられた人の家族が集い、犯罪被害者の会を立ち上げて いる。家族の苦しみ、傷を語り合い、苦しむ人同士励ましあっている。不条理 な苦しみのいない社会を作ろうと活動している。苦しみに対する共感は、私た ちの道を拓く。

  ニューヨークで起きた同時多発テロ事件9・11で犠牲になった人の家族 も、その苦しみ悲しみを語り合い、励ましあっているという。心理学者は、犠 牲者の家族のカウンセリングを通して、自分自身をそのまま受け入れてくれる 場所、安心できる場所があることが何よりも精神的苦しみから解き放つという ことを再確認したという。私たちを慈しまれるイエスの苦しみは、何よりの安 心な支えではないだろうか。

  あの日、絶望の淵に立たされた人々は、追悼の集いで賛美歌を歌っていた。 「やすかれ、わがこころよ、主イエスはともにいます。いたみも苦しみをもし ずかに忍び耐えよ。主イエスのともにませば、耐ええぬなやみはなし。」(讃美 歌21-532)世界の人々の平安を祈ります。

 愛隣こども園
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