パウロは、神の偉大さを讃える。パウロは、同胞であるユダヤ人たちがイエス・キリス トを拒絶してしまい、頑なな心であるので、神の救いにあずかれるのかと大いに心配にな
った。このことを9章で、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛み があります」と言う。しかし、神がユダヤの人々もすべての人々を救うためにはからって
いることを気づいて、パウロは人知を超える神の知恵と力を大いに喜び、神の偉大さを讃 えている。
パウロは、同胞であるユダヤ人が救われないのではないかと不安にされ、悩んだ。私た ちも、長い人生の中に悩みを抱える。NHKテレビの番組で、ミッドライフクライシス、5
0歳代の人たちが悩んでいることが紹介されていた。私たちは青春時代だけでなく、人生 を生きて曲がり角に悩む時を迎える。私たちの生きている現実は、いつもはっきりとした
答えがあるわけではない。様々なことが想定され、様々な場合がありうる。答えは一つで はないし、それぞれの答えが正しいこともある。複雑な現実の中で私たちは悩む。
旧約聖書では、神は知恵に富んだ方だと見ていた。信仰深い人に神が知恵を授けると信 じていた。パウロは伝道生活では、ギリシャの思想、グノーシスに立ち向かった。グノー
シスとは、知識、神の世界の知識。知識が豊かだから、十字架は問題ではないとする人々 の中で伝道した。そういうパウロは、神こそが最も知識に富んだ方だというのだ。神は富
み、深い知恵と知識をもってすべてを救いへと導いておられる。知恵と知識を、救いのた めに用いてくださる。そして、このような神は、悩むということはないのだろう。
私たちの人生の中で、これからどうなるのかわからないということが最大の問いではな いだろうか。私たちは、わからないことがあり、知りたいことがある。しかし、これから
のことは往々にしてわからないし、知り様がない。人間の限界ということを身につまされ る。そういう時、人間にはわからんことがあるのさと放っておくのか、それとも、人間だ
からわからないことがあるので、これは神様に教えていただこう、その時が来るまで待っ ていようとするのか。この二つの態度は目に見える所は同じような態度に見えるが、この二つの態度の信仰のあるなしははっきりしている。私たちは神の時を待つのだ。
やりたいことがある、このようになってほしいということがある、つまり、願望がある。 これが人を悩みに誘う。こだわりがある。こうならねばと強く力む。これが人を悩みに誘
う。私たちの身勝手な願望に囚われて、私たちの悩みは大きくなり尽きることがない。私 は、悩みながら、ああこれは私の身勝手なために悩んでいるだと気づかされる。それで、
心をしずめることもある。愛に満ちた神様には、こういうことはないのだろう。私は人間 だなあと思わされる。
私たちは、今すぐに、知りたい、わかりたい。しかし、今この時、手にした答えが正解 だという保証はない。人間としての最大の誠実さをもって、神に託すという道がある。勇
気を与えられたい。神の領域に踏み込まず、神に期待していこう。よく言われることだが、 答えのない、あいまいさに耐える心を持とう。それは、神を拠り所とすることだ。パウロ
が今日の箇所で神を讃えるのは、つまりは、こういう思いから出たことではないかと思う。
イエス様の言葉がある。マタイ福音書6:25-34「25 だから、言っておく。自分の 命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩
むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26 空の鳥をよく見 なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は
鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27 あなたがたの うちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28
な ぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働き もせず、紡ぎもしない。・・・31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着よう
か』と言って、思い悩むな。32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがた の天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。33
何よりもま ず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労
は、その日だけで十分である。」
神は私たちを忘れてはいない。悩みの中にある私たちの傍らで、善きことへとはからっ ておられる。
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