この箇所で、使徒パウロは、私たち人間についてのユダヤ人の考え方を記し ている。人は魂と肉体である。魂だけでも、肉体だけでも不十分。魂と肉体が
一つになって人間である。それで、死んでからも魂だけで存在するのではなく、 神から新しいからだ(霊のからだ)を与えられるという。
カトリックの修道院に行った時、墓地に行くと修道士や司祭が土葬されてい た。パウロは、「天から与えられる住みかを上に着たい」(2節)と言うように、
死んだ肉体の上に霊のからだ、よみがえりのからだを着ると信じているのだ。 ユダヤ人パウロにとって、肉体を失った魂だけ、丸裸の魂はおぞましいことだ
った。
私たちのように火葬する場合でも、いつの日か、よみがえる時によみがえり のからだを与えられる、魂に着せられて、私たちは神の下さる衣に包まれるの
だ。魂だけでなく体が与えられるというのは、死んでからも私たちは一人の人 として確かに存在するということだ。キリストの救いの御業は、私たちを神の
前にいつまでも確固たる存在としてくださるのだ。神の愛に包まれ守られるの だ。だからパウロは、「心強い」と言う。
「心強い」とは、元気になる、勇気を出す、何もはばからないことを言う。 神のみもとに確かに存在し、いつまでも守られるということを信じて、パウロ
は何も心配がない、心強いと言う。私たちも、神がくださるからだをきて生き 続け、守られると信じて心強い。
終活とも言われて、エンディングノートを書く人がいる。尊い気持ちだと思 う。死んだ後のこの世のことを整えておられる。神様は、死んでからの私たち
のことを確かにしてくださる。とても有難いことだ。それで、パウロはもう一 言を記している。「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひた
すら主に喜ばれる者でありたい。」(9節)
パウロは福音を語る中に、見逃すことのできない人たちがいた。それは、救 いは確かなのだからこの世での振る舞いや生き方は問題にしなくてよい。どん
なに不道徳でも、救われることが決まっているなら、関係ない。このように言 う人たちは、本当に福音を分かっているのだろうか。神に愛されていることを
良いことにして、不道徳な生き方をすることが許されるのだろうか。
むしろ、福音とは、一人の人が本当に人間として最も良い道を歩むことを願 っているのだから、神に愛されていることを感謝して、神の愛に応える生き方
をするように招いているのだ。
だから、パウロは、キリストの救いを喜びつつ、自分自身を顧みて、最後の 審判の日を思い「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と願っているのだ。救
われるとしても、こんなに主に喜ばれたのだということを思いつつ、人生を終 えて神のみもとにいたいのだ。
マグダラのマリアは、イエスのよみがえりの日、イエスの墓に行った。イエ スを尊び慕うから、イエスのために尽くそうとしているのだ。この思いに応え
るように、よみがえったイエスはマリアの前に現れてくださった。マリアはど れほど喜んだだろうか。神の愛に応え、神を愛する人に喜びがある。
神は、私たちの生きている時もこの世を去ってからも、私たちを大事にして くださる。このことを信じて、神の愛に応えて生きていこう。私たちが神様を 思う思いに神様は応え、私たちが神様のみ心に歩む道と力を備えてくださる。 私たちの魂に神様からの衣を着る日、よみがえりの朝に喜びがある。
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