神に期待しないという人がいる。神に期待して裏切られるくらいなら、初めか ら何も期待しない方が良いという人がいる。そして、神が何か良いことをしてく
ださることを期待することを信仰だと思ってよいのかと問われたことがある。
私はその問いかけに対して、こう答えた。私たちは神様に良いことをしてほし いと求めている。それは、度が過ぎれば取引になる。それは良いことだとは思わ ない。しかし、私たちが願い求める前から神が私たちに温かい思いを向けてくだ さっていること、神の本心が愛することだから私たちが愛されているのなら、そ れはそのままに受け取り、感謝して過ごしたいと答えた。
今日の箇所で、パウロはこの世を去った後、神から栄光に輝く復活の体を与え られること、神が私たちを大事にしてくださることを望みとして生きようと呼 びかけている。 私たちがこの世を生きている間に身に着けていた卑しい体を、神は神の栄光 に輝く体に変えてくださるという。この神の私たちに対する温かい思いを受け 取り、それを喜びとしている。パウロは、私達が願う先に神が素晴らしいことを 備えていてくださることをそのまま受け取り、生きる喜びとし、望みとしようと いう。
キリストの再来と聞くと、私たちは途方もなく遠い将来のことだと思ってし まう。この世はいつまでも同じように続くという感覚でいる。けれど、パウロの
生きていた当時の教会は、聖霊に満たされ、キリストが再来する救いの日は間近 だという切迫した雰囲気の中にあった。キリストの再臨は数年後、数十年後のこ
とではなく、今日かもしれない、明日かもしれないと、パウロは思っていたよう だ。そう思うと、復活の体を与えられるということに対しても、切迫したことと
受け止めていたのだろう。栄光のからだに変えられる日に対して、パウロはとて も大きな思いを向けていたことを思わされる。
「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じ ように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」(17節)
パウロと同じように、私たちもこの世を去ってからキリストの救いを信じ、その 素晴らしい時を待ち続ける。その時を、望みとし、心の支えとしている。そして、
「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対 して歩んでいる者が多いのです。」(18節)という言葉は、とても力のこもった
言葉のように感じる。どうしてだろうか。
振り返って、パウロは大回心をした人だと言われている。その実際のことはほ とんどわからないが、このフィリピの信徒への手紙の3章の初めの文章は、その
回心の有様を垣間見せている。自分がユダヤの社会でエリートであり、素晴らし い血筋であり、一流の人々との交わりを得ていたというのだが、しかし、キリス
トに出会い、大回心を果たした今は、当時の自分を恥じてしまい、さらには昔の 自分が誇っていたものを塵芥だと思うと言う。
このように言うパウロは、18節の言葉を記しながら、昔の自分に向かって言 っているような思いでいるのだろう。回心する以前の自分が、どれほど十字架に
敵対した意識を持ち、そのような生き方をしていたことを悔やんでいるのだ。自 分事として、嘆き、叱っているのだ。
ハンセン病患者だった玉木愛子さんは、クリスチャンになり、多くの俳句を残 している。「毛虫はえり 蝶になる日を 夢見つつ」。玉木さんは、いつの日か栄
光に輝く体(蝶)に変えていただける日を望みとしていた。
私たちには、神が備えていてくださる素晴らしい日がある。神様は私たちをい つまで大事にしてくださる。もはや自分を誇るという過ちを犯していたような
昔の自分は問題ではない。反対に、人に誇れないような劣っている者だったとし ても、それはもはや問題ではない。ただ神が私を愛しておられ、大事にしてくだ
さるということが、パウロの喜びであり、生きる望みだった。
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