本日は、永眠者記念礼拝です。先に召された方々は、今、神様のみもとにおら れます。神様のみ手に守られています。すべての人を神は愛しておられますから、
この世での歩みがどのようであっても、神様のみもとには一人ひとりの住む場 所が用意されています。
「1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために
場所を用意しに行くと言ったであろうか。3 行ってあなたがたのために場所を 用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わた
しのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ福音書14:1-3)こ のイエスの約束を信じて慰めを得ていただきたい。
クリスマスは、救い主イエスの誕生を祝います。「言は肉となって、わたした ちの間に宿られた。」(ヨハネ福音書1:14)「宿る」というのは、長い期間留
まるということです。神は我々と共におられる(インマヌエル)という出来事で す。神(神の子)はこの世におられ、私たち(罪人)と共におられます。そして、
私たちはこの世の歩みを終えてから、神のみもとに召されます。この世にあって、 そして死を越えて、神は共におられます。身元に召された私たちの歩みを神様は
ねぎらい、人生の歩みにおける喜びを共にし、悲しみを共にしてくださいます。
「3 見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。 神は自ら人と共にいて、その神となり、4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取っ
てくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは 過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:1-4)
讃美歌108番の歌詞は、100年前、讃美歌作家マーガレット・マッカイが 英国南西部のデボン州の墓園を歩んでいた時に「眠れ、主にありて」と刻まれた墓標を見て、その言葉に着想を得て書いたと言われています。「主にありて、眠
る」とは、主イエスのみもとに招かれ、救いを得て、永遠の命に包まれ守られて 平安に眠ることです。
召された人と主が共におられて、何も恐れることなく安心 していることです。 召された人のお姿は肉の目には見ることができなくなりますが、その人との
関わり、つながりはなくなりません。その方のお姿は見えませんが、一人ひとり の心の中におられます。死は終わりではありません。新しい命の始まりです。さ
らに、この世にある人も召された人も、天地の境を越えて神のみ手の内に一つと されます。一人ひとりとの関わりの新しい始まりです。神はいつも私たちと共に
おられるからです。
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