クリスマスは、イエス様がお生まれになったことをお祝いする日。アドベント はイエス様をお迎えする心を備える時。そして、世界の全てが救いに与る終末の
時に救い主イエスが到来するのを待つ心を備える時。救い主は 2 度到来する。 人として誕生して、そして再臨して。マタイ25章を読み、終末の時にイエス様
が再臨される時、何をなさるのかを覚えたい。
31 節「人の子(イエス)は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、そ の栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが
羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」一人 ひとりがイエス様の目に適う人かどうか、評価されるという。
私たちは、人を評価するということをする。小学校に通い始めてから、学校で の成績が良いかどうかを評価される。社会人になって働き始める。職場での評価
がある。仕事や職場が求めることに応えることができる人かどうかが問われ、評 価される。しかし、上司が部下を評価するということ、人が人を評価するという
ことは簡単ではない。
ある譬えに、何人かの人が目隠しをして一頭のゾウを触ったとして、それぞれ が違う生き物だと言ったというたとえ話がある。鼻が長い、耳が大きい、足が太
い、体が大きい。自分が触れた部分、それがゾウという生き物だと言う。
今日の箇所で、終末の時、救い主イエス様がこの世に現れ、世界中の人を右左 に分ける。あることをできたかどうか、評価される。では、右左に人を分けるそ
の基準、イエス様の観点は何だろうか。イエス様は何を一番大事なことだと思っ ておられるのだろうか。
この譬えの「王」とは世界の王となるイエス様のこと。飢え乾いている人を助 け、危険な旅をする人を助け、困っている人や病気の人に手を差し伸べること。
つまり、人に対する愛を抱いていたかどうか、愛の業をなしたかどうか。この一 2 点。他にどんな素晴らしいことができたとしても、どんな優秀な人であったとし
ても、ただ一点だけ。人を愛しているかどうか。イエス様は一人ひとりの抱く、 人に対する愛を巡ってこの譬えを話されている。イエスの私たちに向ける目、評
価は、愛するということ。
私たちは愛するということが難しいと知っている。イエス様が十字架にかか った。ご自分の大切な命を人のためにささげられた。愛することは、自分を捨て
ること。リスクを背負うこと。愛することはとても厳しいことだと思う。聖書に は、神を愛すること人を愛することを巡って様々に書かれているが、愛すること
はいつもイエスの十字架の愛に行き着くと思う。
今日の聖書の言葉を読んで、少しばかり安心する。十字架にかかりなさい。命 を捧げなさいとまでは言われていない。目の前の“となりびと”のために何をした
かということを、イエス様は評価される。
イエスの言葉。マタイ 10:31「わたしの弟子だという理由で、この小さな者 の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
30 年前、イスラエルのガリラヤ湖のほとりで、私は真夏の照り付ける厳しい 日差しの下に上り坂を自転車をこいで、生き絶え絶えに倒れていた。近くでバー
ベキューをしている人が、紙コップにコカ・コーラを入れて差し出してくださっ た。生き返った。その人は、イスラム教徒だった。私がクリスチャンだと察して
いるはず。
息を吹き返しつつ、あのマザーテレサを思い出した。宗教を問うことなく、道 に倒れている人を看取った。人を愛するということは、いろんな壁を乗り越える
ことだ。宗教の壁、人に向ける頑なな心の壁。私たちには、“となりびと”に向け る温かい心を閉じ込めてしまうさまざまな壁がある。
私に今、愛の手を差し伸べてくれることを期待している人はいないか。大きな こと、難しいことを考えるのではなく、単純に優しく愛を求める人がいるという
ことから始まる愛の業をイエスは喜んでくださる。イエス様にとって一番良い ことをしているのだから、隣人を愛する私たちをイエス様は支えてくださる。
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