私達は、この世にあって人と共にあり、人を相手に人に向き合い、人に恵ま れ、そして人に悩まされます。しかし、人と向き合っているだけではなく、目
に見えない神様と共に生き、神様に向き合って生きる人生があると聖書は教え ています。 旧約の民、イスラエル、その名前の意味は「神を相手にする人々」という意
味です。しかし、神の民にも弱さがあり、神を信じることができない時があり ました。この世は、人と人とが生きている場所、神なしで人だけが生きている
場所だと思うような時がありました。預言者イザヤが、今日の59章を語った 時代は、そういう時代でした。 神の民イスラエルの人々は、遠くバビロンに捕らえられていましたが、バビ
ロンは滅び自由の身になりました。祖国に帰って新しい気持ちで神の民として 生きていこう、エルサレムに新しい神殿を建てよう、神様を礼拝して新しい神
の民の国を作ろうと希望に胸を膨らませてエルサレムに帰ってきました。しか し、50年ぶりに帰った祖国は、人が満足に住めるような場所ですらありませ
んでした。どの人も今日一日を生きていくのが必至。人々は騙し合い、人を裏 切ることを繰り返していました。心はすさみ、社会は荒れ果てました。神殿を
建てる夢は吹き飛んでしまいました。神殿はなく礼拝もままならず、夢や希望 をくじかれた人々は生きる力を奪われ、神を見失ってしまいました。 16
節「 主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた。」神 を相手にする人、神に救いを求める人はいなくなっていたのです。どの人も皆、
目に見えない神様を忘れて、目の前にいる人だけを相手にして生きていました。 このような人々を、どうすれば救うことができるでしょうか。神を見失った
人々は、自分で神に助けを求めることはしません。誰も神様が助けてくれると は思いもしないのですから。荒れ果て、信仰を失ったこの世は、ただただ苦し
みを背負うばかりなのでしょうか。まさにそのような時に、神様は立ち上がっ てくださいました。イザヤは神を見失った民に向かって、神の救いの御腕が今、
振り下ろされたと告げています。「主の救いは主の御腕により/主を支えるのは 2 主の恵みの御業。17 主は恵みの御業を鎧としてまとい/救いを兜としてかぶり、
報復を衣としてまとい/熱情を上着として身を包まれた。」 クリスマスに、神の御子がお生まれになります。この世の人々に、救いをも たらすためです。誰も求めてはいないのに、神様がそのようになさいました。
神様が救い主を与えて下さいました。この救い主、イエスを信じ、この人の愛 を信じ、拠り所としなさいと神様は私達に告げています。このイエスの十字架
の愛を何よりも信じていきましょうと呼びかけています。 イエスは、宣教活動の初めに、当時のガリラヤの人々のすさんだあり様が見 えていたようです。マタイ9:35「イエスは町や村を残らず回って、会堂で
教え、御国の福音を宣べ伝え、・・・群衆が飼い主のいない羊のように弱り果 て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」 預言者アモスが、こう言っています。「8:11
見よ、その日が来ればと/主なる 神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく /水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」
今、私達はどうでしょうか。神の御言葉に満たされていますか?神の救い、 神の愛があることをほんの少しも疑わないで信じていますか?どんな苦しいこ
とがあっても、辛いことやくじけそうなことがあっても、それでもなお信じて いくことができますか?世界のニュースでは、毎日のように誰かが死んだこと
殺されたこと、殺し合いをしたこと、誰かが不正を働いたこと、親が子どもを 苦しめたこと、人間の罪や醜さに溢れた世界のことが知らされています。どう
してこんなことになっているのでしょうか。私達に神様の御言葉、神の愛は十 分でしょうか。 イエス様は、神の御心を私達に伝えるみ言葉だと言われています。神のみ言
葉が、この世に来てくださいました。私達は、神のみ言葉が響き渡る世界に生 きています。クリスマスに神の御子イエス様を、救い主をお迎えしましょう。
私達は日々、人々と共に生きています。さまざまな喜びがあり、悲しみがあ ります。そして、神様は私達と共におられます。神の愛と神の真の御心を告げ
る方を、新たな思いをもってお迎えしましょう。
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