預言者イザヤは、エルサレムの町に神の救いが現される日が来ると、エルサレムの 町が光り輝くという。それで、エルサレムの人々に「光を放て」と呼びかけている。 エルサレムの人々が自分の光を放つのではなく、神の栄光の輝きがますます輝きを増 し、世界中を照らすようにしようと呼びかけている。
旧約聖書の時代、ユダヤの都エルサレムに神殿があり、そこに神が臨在すると信じ られていた。しかし、その神殿が破壊されてしまい、神殿がなくなってしまった。け れど、今、人々の努力によって神殿は再建された。その神殿に神は再び臨在される。 そして、エルサレムに救いをもたらされる。神の栄光の光を輝かせられる。エルサレ ムの神殿から、神の栄光の光が照り輝く。エルサレムの人々は神が神殿に確かに臨在 されることを喜び讃えよう、そうすることがエルサレムの人々が「光を放つ」という ことだと呼びかけている。
この時、エルサレムの人々は生きる希望を失っていた。遠く離れたバビロンで捕囚 の民とされ、50 年後に祖国エルサレムに帰って来た。すべて破壊され、田畑は荒らさ れていた。神の国を再び作るのだと信仰に燃えて勇んで帰ったが、しかし、エルサレ ムは彼らを歓迎しなかった。そこは荒れた土地だった。日々の食糧はなく、人々は一 日を生きるのが必至。人々の心はすさみ、希望はなかった。
神の民として再出発するために、新しい神殿を建てようと願っていた。しかし、そ れは日々を生きるのが精いっぱいという状況では、全くの夢物語だった。困難を極め つつ数年後に神殿が完成したが、その余りの小ささに老人たちは嘆いた。エズラ記 3: 12「昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿 の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげ た。」私たちにはこんなものしか建てられないのかと嘆き、将来に希望を持つことは できなくされていった。
この世(エルサレム)は、闇と暗黒に覆われている。そこでの人々の生活は、とて も苦しかった。生きる希望はなかった。しかし、神はそのエルサレムを顧みられる。 決して忘れてはおられない。神は人々があまりにも小さいと嘆く神殿をも顧みてくだ 2 さり、そこに臨在される。そのようなところすらも、神の栄光に輝く場所とされる。 エルサレムの打ちひしがれた人々を顧み、神はその慈しみに溢れる光を輝かせられる。
「起きよ、光を放て」。神の栄光の光、救いの光、慈しみ溢れる光を、エルサレムの 人々は喜び讃えよう。神の慈しみを信じ、改めて拠り所としよう。再び立ち上がるこ とを神は願っておれる。預言者イザヤは打ちひしがれたエルサレムの人々に、望みを もつように呼び掛ける。「起きよ、光を放て」。
ルカによる福音書 2 章で、エルサレムの神殿の祭司シメオンは、生後8日目の赤ん 坊イエス様を抱く父母を出迎え、このイエス様のもたらす救いを讃えて歌った。29 節「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださっ た救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
預言者イザヤはエルサレムに輝く神の栄光を語るが、生後 8 日目のイエス様をエル サレムの神殿でお迎えしたシメオンは、この世のすべての人のための救い主がお生ま れになったと喜んで歌う。
シメオンは霊に満たされた人だったので、救い主が生まれること、救い主を迎える までは死ぬことはないと知らされていた。今、救い主を抱いたシメオンは、深く喜ん だ。今、救い主を見た私は死を迎える、この世を去る。しかし、それはとても安らか な出来事だ。この私を救う救い主を見、その腕で抱いたのだから。はっきりと救いが あることを信じることができるようになったのだから。それは、神様の慈しみを受け 取るというとても心安らかなことだ。彼の一生が神の恵みによって満たされるのだ。
私たちの幸せを願っておられる神様が共におられるのなら、この一年が新しい一年 のための土台、踏み台であることは確かなことだ。私たちも神様の慈しみを生きる拠 り所とし、古い年を去り、新しい年を迎えよう。神様は、神の民のその小さな神殿を も顧みてくださる。必死になって再建する人々の神様への篤い思いと努力をないがし ろにされることはない。
今までの私たちの歩みが、その実りが、どれほど小さく思えたとしても、「起きよ、 光を放て」と預言者は私たちに呼びかけている。これからも神の慈しみ喜び讃え、そ
のようにして神の救いに与る喜び幸いに満たされるように祈りたい。
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