日本キリスト教団

 
 
2025.01.12
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
『イエスの洗礼』
マタイによる福音書 3 章
13-17節
  キリスト教では、入信する時に洗礼を受けます。罪が赦されるためです。け れど、イエス様は神の子ですから、罪を赦される必要がありません。しかし、 イエス様は、罪人と同じ立場になりますという思いを表明するために洗礼を受 けました。これからイエス様は罪人の罪が赦されるためにへりくだるのです。

  ここでイエス様が言っている「正しいこと」という言葉は、「神の求めるこ とをすること」です。イエスがへりくだるのは、洗礼を受けるのは、神様が求 めていることだから。そのようにして私たち罪人の罪が赦され救われるのです。

  この15節、新しい聖書の翻訳(聖書協会共同訳)では、イエス様はこう言 われています。「すべてを正しく行うことは、我々にふさわしいことです」。イ エス様は、神様が願っていることを行いたいと言われたとしています。神様が 罪人を愛しておられる、だからイエス様はその神の愛を罪人にへりくだって現 わしてくださるのです。この世には正しいことはいろいろありますが、神の願 いこそが正しいことです。神の愛、人を愛することが正しいことです。

  洗礼者ヨハネはイエスが洗礼を授けてほしいというので戸惑いましたが、弟 子のペトロはイエス様が自分の足を洗うというので戸惑いました。ヨハネ福音 書13章 6 節以下「6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あ なたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。7 イエスは答えて、 「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるように なる」と言われた。8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」 と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたし と何のかかわりもないことになる」と答えられた。」

  ペトロは、イエスがどういう思いで生き働いておられるのかということに気 付いていなかった。ペトロだけでなく、多くの人には、イエス様の心構えには 戸惑うばかりでしょう。神様の愛にペトロは戸惑い、また洗礼を授けるヨハネ も戸惑っています。人の思いではないからです。

 童話作家・新見南吉が「ごんぎつね」という童話を書きました。ごんぎつね は人里にやって来ては、誰かの家の栗を盗んだり、魚を取ったり、いたずらば かりする。ある日、ごんぎつねはいたずらを後悔し、償いの気持ちから兵十の 家に毎日食べ物を届けるようになるのです。兵十は、毎日、自分の知らない食 べ物が台所においてあることを不思議に思う。誰かが持ってきたのだろうか。 ごんぎつねだとは知らないのです。ある日ごんが栗の実を届けようと思って家 の中に入っていくのを見掛けた兵十は、火縄銃でごんを撃ちます。そして土間 に置かれた栗を見て、食べ物を毎日届けてくれていたのがごんだとその時初め て気付くのでした。

 この話のわずかな救いは、このごんぎつねが兵十のためを思ってしていたこ とを兵十が最後には知ることができたことです。「後から知る人の愛」というも のがこの世にはあるのだということを伝えています。そして、ごんぎつねは、 銃で撃った兵十のことを恨んでいるでしょうか。本当に兵十の幸せを願ってい るのなら、そうではないと思います。へりくだるイエスの愛を思わせます。

  15節 イエスは言われました。「今は、止めないでほしい。正しいことを すべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言わ れるとおりにした。」ヨハネは洗礼を授けて、このイエスの思いにしっかりと 答えました。神が望んでおられることだということが、戸惑うヨハネを神の働 きに参加させることへと誘ったのです。

  私たちも、正しいことをしましょう。神の望んでおられること、神を愛し人 を愛すること。自分を押さえて、へりくだること。誰も望まないことだとも思 いますが、では、どうすることが私たちが神様を尊ぶことになるのでしょうか。

 パウロは、イエスの生きざまにならって、人々にへりくだり仕えました。自 分の宣教活動をこのように言っています。Ⅰテサロニケの信徒への手紙 2 章4 節「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいた だくためです。
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