日本キリスト教団

 
 
2025.01.19
説教ダイジェスト
礼拝説教要約
『御手にゆだねて』
ルカによる福音書4章
1-13節
  イエスは、荒野で悪魔から誘惑を受けた。マタイ福音書とルカ福音書に書か れているが、比べてみると違いがある。伝えたいと思うこと、強調点が違う。 悪魔からの誘惑の順番が違っている。最初は石をパンに変えろと言う誘惑。こ れはどちらの福音書も同じ。そして、2番目と三番目が入れ替わっている。

  マタイでは最後の誘惑は高い山に連れて行き、悪魔を拝めと誘惑される。こ れは、誰がこの世界で最も権威ある方かということ。この世の真の支配者、神 にこそ従うという信仰をイエスは貫く。

  ルカでは、最後の誘惑は、エルサレム神殿の高い塔から飛び降りろと言う誘 惑。聖書に神様はどんなことがあっても守ると書いてあることを根拠にすると いう。このルカの伝えたいこと は、神様を信じ神様に委ねて生きるとはどうい うことか。個人的な信仰のこととして誘惑を考えている。

   今日は、ルカ福音書の誘惑の話。神様に委ねて生きる、つまり、最後まで神 様を自分の人生の主人として、神様と共に生きるということをなさるイエスの 姿を通して、私たちは何を思うかということだ。

   悪魔はイエスに誘いかける。9節「神の子なら、ここから飛び降りたらどう だ。10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに 命じて、/あなたをしっかり守らせる。』また、/『あなたの足が石に打ち当 たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」信じているなら、 その信仰を見せてみろと言うこと。

   落ち着いて考えれば、イエス様はこの場面でご自身の信仰を見せるべきなの だろうか。その必要はない。信仰は、一人ひとりの胸の内にあればいい。最も 苦しい時に、その真価を発揮すればいい。神様がこう言っているからとその通 りになすならば、遠回しに神様をもてあそび、疑っていることになりはしない だろうか。

   ルカ福音書にとって、エルサレムはイエスが最も苦しんだ場所だ。ユダヤの 指導者たちと論じ合い、憎しみを買い、十字架に追いやられ、死んだ場所だ。 しかし、そのエルサレムこそ、悪との戦いに勝利した場所だ。悪魔は3節「時 が来るまで」イエスを離れていたが、エルサレムでの最期の日々、イエス様に 再び襲い掛かった。あなたは本当に神に従うのか。人々の救いのために死ねる のか。救い主なのか。自分の命を差し出すイエスに、悪魔の誘惑は厳しかった。

  そして、イエス様はゲッセマネで祈られた。22章40節「いつもの場所に 来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ た。41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈ら れた。42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、 わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」この祈りは、祈りの 模範と言われている。「御心のままに」こそ、信じているということだから。

   私たちも神様に委ねる時がある。苦しみの中に神様はきっとよくしてくださ る、祈りを聞いてくださると信じて委ねる。これは尊い信仰だと思う。しかし、 イエスはここに留まらなかった。 自分の命を差し出すとは、どういう心境だろうか。自分のこれからは全くわ からないままで委ねていった。自分にとって悪いことになっても、それが「御 心のままに」であるなら、それを神のみ心と受け止め、受け入れるのだ。凡人 には決してできないことだ。けれど、これこそが本当の委ねるではないだろう か。

   日々の生活の中のあれこれのことをかなえてくださると信じて神にゆだねる のも信仰。長い目で見て、私の人生の結末を良いものとしてくださると信じて 気長に構え委ねるのも信仰。私の人生を私が作るというのではなく、私の人生 は神様が作ってくださると思い神に委ねるのも信仰だ。イエス様は、本当に委 ねた方だ。神のみ心に生きた方だ。
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