イエス様は、マタイ福音書ではロバに乗ってエルサレムの町の中に入って行った (入城)と書かれているが、ルカ福音書ではオリーブ山の谷の底、エルサレムの町を
取り囲む城壁を見上げる場所までロバに乗って進まれたと書かれている。不信仰なユ ダヤの指導者たち、強大な権力者たちに一人立ち向かうイエスの姿が描かれている。
イエス様は、二人の弟子をご自分の乗る子ロバを探しにベトファゲ村に遣わした。 すると、イエスの言う通りに子ロバが見つかり、紐を解いていると、持ち主が「なぜ、
子ロバをほどくのか」と問いかけた。それは、誰も乗ったことのない子ロバであり、 そんなに幼くて役に立つのかどうかもわからないものを、どうして必要なのかと問い
かけたのだ。イエス様が求めたのは、そのようなロバだった。
弟子たちは自分の着ている服をロバにかけ、イエス様はその上に腰掛けられた。立 派な鞍ではなく、弟子たちの来ている服がイエス様のための乗り物だった。イエスを
信奉する群衆たち(弟子たち)も、自分の来ていた服を道に敷いてイエス様を迎えた。 上等なカーペットではなく、人々が身に着けている普段着がイエス様を迎えるための
敷物となった。イエス様は、だれも見向きもしない子ロバを求められ、人々の普段着 を歓迎の贈り物として受け取られた。このようなイエス様が、人々を苦しめている権
力者に立ち向かっていかれる。
武器の一つも持たないで子ロバにまたがるイエス様の姿に、私は力の抜けた脱力を 感じる。力むことなく、あるがままにおられると感じる。しかし、見る目のある人に
は、神が共におられることが見えているのだ。詩編 46 編 9 節から。「9 主の成し遂げ られることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。10
地の果てまで、戦いを断ち /弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。11 『力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々 にあがめられ、この地であがめられる。』」
イエス様を迎える人々は、自分の着ている普段着をイエス様に差し出した。決して 上等な贈り物ではない。しかし、イエス様は人々の差し出す物を喜んでくださる。イ
エス様を迎えるとは、このようにすることなのだ。「なぜ、子ロバをほどくのか」と問 う人がいる。そして、役に立つのかわからないものでも、喜んでくださる方がいる。
イエス様は、高価なものを差し出すことができないとしても、人々の思いをしっかり と受け止めてくださり、神がいつも共におられることをこそ力の源とされた。
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