皆さんは「祈る」と聞いて、何を思われますか。祈るとは、手を合わせて神 様に心を向けて、私たちの思いを神様に向けることです。礼拝の中での祈りが
あり、一人ひとりの祈りがあり、クリスチャンは祈ることをします。そして、 私たちの神様に祈るだけでなく、広く宗教の世界では、神仏を尊んで、神仏に
手を合わせるということをしています。宗教というもののことを祈り、祈りの 世界という人もいます。
私たちは、何を祈っているでしょうか。祈りの 5 要素と言われますが、神様 を賛美すること、神様に感謝すること、神様に従えないことを悔い改めること、
自分のお願い事、隣人をとりなすこと、この5つのことで祈りは成り立ちます。 これは、私たちが日々経験している神様のお働きを振り返って祈るということ
です。つまり、祈るということは、私たちが神様を信じて生きていることその ものです。私たちの信仰生活が、祈りの源なのです。専門用語では、霊性、ス
ピリチャリティーとも言いますが、祈りは霊性の表れです。人の理性を越える 力の働きを信じ、理性を越える神の存在を信じてこそ、霊性、祈りです。
旧約聖書のエレミヤ書の7章「2 主を礼拝するために、神殿の門を入って行 くユダの人々よ、・・・4 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉
に依り頼んではならない。5 -6 この所で、お前たちの道と行いを正し、お互い の間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さ
ず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。・・・ 8 しかし 見よ、お前たちは・・・9 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をた
き、知ることのなかった異教の神々に従いながら、10 わたしの名によって呼ば れるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。・・・11
わた しの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。 そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」
神の民ユダヤの人々が堕落して神をないがしろにして、自分たちのやりたい 放題にしている。人の道を踏み外して、盗みをし、人を殺し、様々な悪に染ま
っている。それなのに、神殿に来て礼拝していれば救われると言っている。神 殿には、誰がいるのか。罪を犯す人、盗みをする人、殺す人、強盗ばかりではないか。神殿は強盗の巣ではないか。
そうではなく、神様に対してふさわしい心を持つこと、それが救いに通じる ことだ。つまり、神様への祈りの心を持つこと、神を賛美し、感謝し、悔い改
め、人への愛を持って執り成すのでないなら、どうして神の民、礼拝をする民、 救いに与る人々でありえるのか。悪事を離れて、神様への祈りの心を持つこと、
神殿を本当に祈る人の集うとこと、祈りの場にすること。これこそが、神様の 願いであり、人々の救いに通じることだ。預言者エレミヤは、こういうことを
語れと神様から託されたというのです。
今日の聖書箇所にあるように、イエス様はエルサレムに行かれて、まず最初 に行かれた所は神殿でした。イエス様は救い主、神様が遣わされたのですから、
人々が神様を礼拝するところ、祈りをささげる所はどうなっているかを、第一 に心に留めておられたのです。
神殿で献金をするために両替をする。ローマ帝国の穢れたお金を使わない。 それで、ユダヤのお金に変える。手数料をたくさん払わなければなりませんで
した。神様に献げる動物、羊やハト、傷一つないきれいな者でなければなりま せんでした。自分の家から持ってきたのは、どこか傷がついているのです。神
殿はお金を稼ぐ場所になっていたのです。まずしいひとが重荷を負わせられる ところになっていました。それで、イエス様は、「こう書いてある。『わたしの
家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗 の巣にした。」と言われるのです。
そしてさらに、本当に神様を尊ぶ人の集まる場所ではなく、先ほどのエレミ ヤ書にあるような、盗み、殺し、人の道を踏み外しているような人々が集まり
巣食うところになっている、強盗の巣になっているとイエス様は指摘されるの です。
祈りとは、私たちの信仰の生活、信じて生きる人生そのもの、それが祈り。 神への賛美、感謝、悔い改め、願い、とりなし、これが祈り。イエス様は、神 殿に集う人たちは、この祈りの心を持っていてくださいと言われるのです。
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