現代の課題はニヒリズムです。このニヒリズムの無を「虚無」としましょう。
しかし、インドから中国を経て、日本に入った仏教、特に中国で発達した禅仏教には、「東洋的無」の考え方があります。これはニヒリズムの虚無とは違います。それはむしろ悟りにつながる、宗教的な世界観、人間観をもっています。道元は「無にあらず、有にあらず」、それは「中道」、「空」とも言えます。今あるあるがままの世界を受け入れて、誠実に生きる。無を基盤として、悟りに到達するわけです。そこには仏教的ヒューマニズム、いや人間だけでなく、生きとし生けるものを大切にして行く、生き方が生まれてきます。この「東洋的無」は、ニヒリズムの虚無とはまったく違うものです。「存在の根源にある無」(フリッツ・ブリ)です。ただ東洋的無には、この世を革新してゆくという積極性がありません。
聖書にも「無」があるのではないでしょうか。三つあげられます。「無からの創造」、「アブラハムは無から有を生ぜしめる神、死人をよみがえらせる神を信じた」(ローマ4:17)、これは信仰義認の説明です。信仰義認とは、無から有を生ぜしめる神への信頼です。もう一つは、今日の聖書の箇所、「キリストが神でありながら、ご自身を無にした十字架の死」です(ピリピ2:6-11)。人間を義とするため、ご自身が無になったイエス・キリストです。第一は創造論的無、第二は救済論的無、第三はキリスト論的無と言えます。しかし、聖書の「無」は、「神の無」である点、東洋的無と違います。西田幾多郎は、西洋と東洋を結び、キリスト教と仏教と両方の基盤で考えました。その結果、東洋的無を、西欧哲学の言葉で表現し、キリスト教的にも仏教的にも理解できる独自の哲学を打ち立てました。絶対無=絶対有=神でした。私たちは、それはキリストの十字架の死が、復活となる、絶対的死が絶対的生となることから理解できます。ただ西田の場合、逆対応といって、逆が成り立ち、人が神になることが、ありうるのではないかと思います。
聖書にある三つの無、一つ一つ考えてゆきましょう。第一は、創造の時、神は無から世界を創造した。ではその「無」とは何か。それは神の外か、内か、神が自己撤退(チムツム)した無の空間に創造をしたのです。その自己撤退は、神の無力ではなく、むしろ愛にほかなりません。しかし、もう一つ「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって、ご自身を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」があります。これがキリストの謙遜(ケノーシス)です。このケノーシス、へりくだりは、単なる手段や方法ではありません。この無にまでちじんでゆく謙遜こそ、神の本当の現実的な姿なのです。わたしたちはふつう「天にましますわたしたちの父なる神」と言って、神を天の高みにおられるお方と考えがちです。けれども、神のかたちにいましたキリストが、「神と等しくあることを、固守しようとは思わず、かえって、ご自身を無にして、僕のかたちを取り、人間の姿になった」のです。それは「神は本当は高いところにおられるのですが、一時、臨時停車みたいに、地上に降りてきた」というのではありません。徹底的にその低さを貫き通しました。ここにこそ、愛なる神の第一の姿があるのです。
そしてそこに名の問題が出てきます。「このキリストにもろもろの名にまさる名を賜った」と。無の底に神の名があり、そしてそれは「わたしはあなたの名を呼んだ」と呼応します。私たちも失われた者の名を呼ばなくてはなりません。子供が生まれると名をつけるのが、ただ他と区別するためなら番号でよいでしょう。国民総背番号は、科学技術世界の宿命です。「名」とは、かけがえのないものとして、大切にすることです。愛の表現です。1 神に名があり、2 私たちが神の名を呼ぶ、3 神が私たちの名を呼んでくださる、 4 私たちが互いに名を呼ぶ。 真理とは、名をつけることです。アウシュヴィッツ、ヒロシマで名もなく死んだ子たちは、無駄に生きていたのか。そうではありません。「イエス・キリストは死者と生者の主となるために、死んでよみがえられたのである」(ローマ13:9)。神は彼らの名を覚えたもう。
この名の神学こそ、今日のニヒリズムの世界を救救済する唯一のものです。