「「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはありません」。よく日本では、「捨てる神あれば、拾う神あり」と申します。では「捨てる神」とは何でしょうか。
1.それは大量消費時代の神です。1955年頃から、神武景気が始まりました。朝鮮戦争後で特需がありました。「もっと消費を、もっと生産を」ということになりました。その時、神さまは何だったのでしょうか。ドル紙幣です。しかし、ドルショックで、神ではなく紙になりました。公害問題が起こり、産業廃棄物を捨てました。自然の循環は乱れました。人間のはく炭酸ガスが、植物には益となり、植物の出す酸素は人間に有益です。その自然の循環は、神の造りたもうたものです。
2. しかし、この大量消費時代には、人間も捨てられます。モーレツ社員、そのため大企業に入って、よい給料を取る、そのために受験、高校の指導要領が変わり、能力別になります。お母さんが、子供の通知表を見ると、悪い点数にばかり目が注がれます。子供は、音楽が、体育がいいと思っているのに、お母さんは、算数や理科の点数が悪いと言い、「駄目だ」と言います。しかし、不良少女が、最もよい保母さんになります。親からいやなことをされる、そのことを身をもって経験しているので、どうしたら子供が喜ぶかを知っているからです。捨てる教育でなく、拾う教育が大切です。「あいつは駄目だ」ではなく、「こんなによいところがある」と見なければなりません。
3. 私たちは罪を嫌い捨てます。人の争いは罪に始まるのです。罪とは、人間のあくなき、自己中心の心です。初め教会に来た人は、教会では、「人を罪人呼ばわりする」と言います。しかし、「汝の罪ゆるされたり」がイエス・キリストの福音です。信仰によって義とされるのは、どんな悪いことをしてもよいというのではなく、「あなたは罪や欠陥があるけれども、イエス・キリストのゆえに、神さまのお役に立つ」というのです。罪、争い、欠陥、劣等感がある、その時すら、私たちは神に生かされているのです。「兄弟よ、罪の前にたじろいてはなりません。罪のままの人間を愛しなされ。これこそ神の愛に似たものなのです」(ドストエフスキー)。
4. 病気もまた益になります。パウロは病気のとき、病気は、自分を高慢にならせないためのサタンの使いだと言いました。しかし、その使いを神は用いいて益に変えます。パウロは「わが恵み汝にたれり、わが力は弱いところに完全に現れる」との神の声を聞きました。
信仰は窮屈だと言う人がいます。しかし、それは「律法的な、してはいけない宗教」を考えているのです。それは捨てる神、捨てる宗教です。しかし、今、神はすべてのものをお捨てになりません。拾う信仰は、自由です。同じ自由と言っても、木の葉の自由と振り子時計の自由とがあります。自分のことしか考えない自由は木の葉の自由で、本当の自由ではありません。それは「欲望という名の電車」に乗っている乗客で、窮屈で満員です。わがままは、かえって欲望の奴隷です。ここにいう自由は、「神の言葉と祈りとによってきよめられる」自由です。キリストは十字架の上で、「父よ彼らをゆるしたまえ」と祈りました。この愛の光に照らされて生きること、その時、感謝が起こり、捨てるべきものがないことが分かります。