私たちは神はいつでもおられる。なぜなら、神は永遠で絶対なお方であるからと言いますし、またそう思って暮らしています。しかし、モルトマンという神学者は言います。「神は床の間の置物のように、いつもそこにおられる訳ではない。神に出会う時がある、それを離れて神はそこにはいない」と。「あなたがたは、主にお会いすることのできるうちに、主を尋ね求めよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ55:6)。私は定年退職してから、教会に行きますという人がいます。しかし、イザヤは、明日の信仰は信仰ではない、今この時に主に帰れと。生ける神には出会う時があります。まだ信じていない人は、いつか信じますでなく、神を知った今、信じよ。「いつか信じます」、神はそのようなお方ではありません。すでに信じている人よ、あなたもう分かってしまってないか、あなたの神は過去形の神である。神はそのようなお方ではない。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」と主は言われる。あなたは、神を天の高みに祭り上げて、永遠の神を信じている。しかし、神はそのようなお方ではない。神はもっと別なお方である。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」。神を天に祭り上げて、地上では別な原理が、この世の経済原理が、現世の科学の原理が働くと考えている、確かにそのとおりだ。しかし、それだけではない。神は、あなたが地上の原理が動いていると思っている、その世界に働いておられる。それは驚くべきことをなさる神である。この神は、今、求めるなら答えるであろう。私たちは、神はこれくらいと思って、線を引いていないか、私の知力の内側に線を引いて、その中で考えていないか。とんでもない、神はそのようなお方ではない。全く別なお方である。「あなたの神は小さすぎます」。
同じことをエペソ書ではこう言います。「あなたがたがキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように」。そこにはかなえてくださるお方に対する深い信頼があります。それは人間の「知識をはるかに越えたものです」。「わたしたちが求め、思うことをはるかに越えてしてくださることのできるお方」がいらしゃいます。人間は、自分のできる可能なところまでしか祈らないものです。それを越えたものにまで思いがいたらないのです。「そんなことが?」とか、「どうして?」といぶかるのです。しかし、イエスは言われました。「すべて祈り求めることは、すでに得ていると信じなさい。そうすればその通りあなたがたになります」(マルコ一一・二四)。「これは人にはできませんが、神にはそうではありません。神にはすべてのことができるのです」(マルコ一〇・二七)。不可能と可能とする祈りなしにはできません。そうでなければ人間の愛は、小さく、短く、浅く、低いものにとどまります。人間が五と思っていある時、神は一〇をしてくださるかも知れません。大きく祈りましょう。愛が「広く、長く、高く、深い」ためには、わたしたちの祈りも、「広く、長く、高く、深い」ものとならなくてはなりません。その時聖書は、「わたしたちの内に働く力によって」と付け加えていることに注意しましょう。神の力、その絶大な力も、わたしたちぬきではありません。わたしたちを通して行われます。ですから「何事もあなたまかせの秋の暮れ」ではいけません。あなたの中に神の力が働くのです。自分自身の力ではありません。神の力ですが、しかし、それは外から来るのでありません。実に祈るあなたの内に働いて、ことをなさるのです。