イエス・キリストが、よみがえられた時、弟子たちは、「ユダヤ人を恐れて、いる所の戸をみな閉めて」閉じこもっていました」。私たちにも恐れがあります、まわりをこわがっています。みな自分のカプセルに閉じこもって、出ようとしません。復活の主が、現れた時も、それと同じ状況だったと考えれば、よいでしょう。人間の恐れと言うものは、きりがありません。私たちはいつも、まわりを恐れて生活していないでしょうか。ひとの顔をおそれ、回りのうわさを恐れ、上役を恐れ、友人を恐れ、恋人を恐れ、死を恐れ、不安に暮らしています。生活が向上しても、その不安はそれほど変わりません。いやそれどころか、一層ひどくなるばかりです。今、弟子たちは、「ユダヤ人を恐れて、いる所の戸を閉めていると、イエスがやって来て、中に立ち、彼らに『あなたがたに平和がありますように』と言われます」。「平安あれ」、つまり不安の反対が、平安、平和にほかなりません。復活の主は、不安のまっただなかに立って、私たちに平和を告げます。この世の不安は、永遠なるものが欠けているのです。永遠性の欠如が不安を生むのです。そして、死は、最後の不安の原因、その牙城と言えるでしょう。なぜなら死は、人間存在の有限性を知らせる、具体的なものだからです。しかしまた死は、私たち人間の生を真剣なものにします。ですから、それは、永遠性を見る窓とも言えるでしょう。そして死の向こう側からの到来、それが今、訪れる復活の主なのです。別な言葉で言えば、復活の主は、死を突き抜けて、私たちの人間存在に、「神が私たちと共に」を告げるのです。あなたは恐れる必要はない、永遠なるお方が、ともにいる。それが「平和があなたと共にあるように」です。しかし、復活は、またつまずきでもあります。なぜなら、死んだ人間が生きかえる、そんな馬鹿なことは考えられないからです。ただ間違わないでください。ここでは「蘇生」をいっているのではありません。もしイエスが死んで、蘇生したのなら、もう一度、死ななくてはならないでしょう。しかし、そういうことはどこにもありません。ここでもイエス・キリストはまったく戸が閉じられていたのに、そこに入ってきたのです。ということは、生前の肉体ではないことを表します。では、それは弟子たちの見た幻影のようなものでしょうか。あとで疑うトマスのところに現れた復活の主は、「あなたの指をここにつけ、私の手を見なさい。あなたの手をつけ、私のわきにいれなさい、信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言っておられます。単なる幻影では、こういうことはありません。とすると、蘇生でもない幻影でもない、何事かが起こったのです。それは私たちが死を越えて、永遠に生きる生の姿と言ってもよいでしょう。復活は、既製の概念で縛られない、神の現臨であります。不安の生のただ中に、「インマヌエル、神われらとともに」が、始まるのです。それは疑うこともできます。しかし、疑う者のところにも、復活の主は、現れました。生きて働く、永遠の神は、何ものにも縛られないのです。疑いにも、不安にも一切縛られないのです。トマスは懐疑主義者であり、また実証主義者でもあります。疑いとは、それほど悪いものではありません。なぜなら、それを通して本当の信仰にいたるからです。また疑う者は、しばしば実証主義者でもあります。つまり自分の目と手しか信じないのです。けれども、復活の主が現れた時、 トマスは、実際に指をつっこんだでしょうか、手をさし入れたでしょうか。そうではなく、ただ「私の主、私の神」とひれ伏したのです。復活にふさわしいことは、実験ではありません。実験というのは、自分がそのものと距離をおいて考えているのです。信仰は、その距離をなくし、自分の全存在をかけるのです。復活は見て信じることではなく、見ないで信じることなのです。彼の実証主義は、復活の主にあってもろくも崩れました。それがよかったのです。しかし、ここで、復活の主は、ご自分の十字架の傷あとをお示しになりました。復活の主とは、あの私の罪のために十字架にかかってくださったお方にほかなりません。さらにここには、復活の主は、聖霊の息を弟子たちに吹きかけておられます。そして 「あなたがたに平和がありますように、父が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わします」。復活は、 永遠の希望の主が、来ます、その方がわれらとともにいます、そのことであります。あなたは、この永遠の希望の主を信じますか。その方を「私の主、私の神」とする、これこそ真実の礼拝であります。