4月10日(日)「悩みの時に我を呼べ」 説教要旨
−詩編 46編1節〜12節− 
 

 

 


   人間はきわめて弱い者です、強がりを言っている時さえ、いやそういう時こそ、本当に弱いのです。弱音を吐くとき、その苦しみから何とかして逃れたいと思いませんか。私たちの一年の計画に、その悩みや苦悩は入っていませんでした。そうではないですか、悩みを計算に入れて一年の計を立てるひとはいません。しかし、私たちは予備費というものを、予算の中に入れます。それは思わぬ計画外のことが、入って来るからです。そのための予備費です。苦悩というのは、私たち計算に入っていないこと、思わぬことで、変則的なことです。けれども、世の中は、この変則的なことが、まさに通常で、変則が原則ではありませんか。人間はみな、そういう苦悩の中にあると思わなければ、それは抽象的な生活です。一体完全な健康体というものがあるでしょうか。病的な人間、それが通常の人間ではないでしょうか。また人は、苦しみの中で、それから逃れたいと思います。いや多くの場合、神から逃れたいと思いませんか。あるいはまた、苦難を解決してから、神に行こうと思いませんか。それは、病気がなおってから、医者に行こうというようなもので、おかしな話です。しかし、病気を常とする時、つまり、予備費を経常費とする時、俄然、神は私たちに近くに来たもうのです。「正しき人は、悩み多し、されど神は、みなその中より救いたもう」(詩編34:19)、「悩みの時にわれを呼べ、われ汝を助け、汝はわれをあがめん」(詩編50:15)とあります。「神は私たちの避けどころ」。「悩める時の、いと近き助けなり」(詩編46:1)。そこから逃れるのでなく、そこへと逃れなさい。あたかも嵐の時、家の中や大きな木の下に隠れるように、大きな方である、神の下に逃れなさい。私の手段をもち、私の才覚、私の知恵をもって、それが前面に出ている時、神は見えないのです。「イエス・キリストの立っているところは、ほかのどこよりも、私たちに近いところにある。またそれゆえにこそ、それは私たちに最も遠いところにある。それは最も知らないところであろう。木を見て森を見ずということがある。イエス・キリストは、私たちの生活のただ中に、この現実の世界の真ん中に立っておられる。ほかでもなく、その中心に立っておられる。どのような人生経験も、世古にたけたところも、この中心を知らず、この中心を見いださなければ、何の役に立とう・・・それは私たちが立っている地面や、自分の呼吸している空気を忘れ、あるいは計算の時、一切の数が、それを基礎にしている、一という数が、もはや、特に数えられないのと同様である」。
 「たとい地は変わり、山は海原の中にうつるとも、海の水が、騒ぎ、沸き返り、山が震え動くとも、われゆるがじ」、「一つの川がある、その流れは都をうるおし、いと高き神の聖所をうるおす」。「神はその中にいまし、都はゆるぐことはない、夜明と共に、神は助けを与えられる」。人びとは川がありながら、その水を飲もうとしない、神は助けだと思っているだけでは足りません、あなたはその水を汲んで飲まなくては。その前にひれ伏し、あなたの具体的問題のただ中の助けとして知らなくては。「神がその中におられるので都はゆるがない」、神の都の不動は、その内なる力、都自体の能力、企画ではなく、神が現在なしたもうことによります。つまり、私たちの困窮、しばしば陥るどうしようもない困難と神の輝かしい助けに満ちた現臨とは、背中合わせなのです。苦難におちいるあなたに、そのあなたと共に、「たとい山は海の真ん中に移るとも」という、この現実の中で、この困窮の現実と神の現実とはいっしょなのです。疲れ果てた時、人間はあれがなくては駄目だと思う、しかし、神は人間の手段を折られます。「助けをえんとして、エジプトに下り、その馬に頼る者はわざわいだ。彼らは、戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。しかし、イスラエルの聖者、神に頼ることをしない」(イザヤ31:1-2)。「静まって、わたしこそ神であると知れ」(10節)。「すべてをやめて(力を捨てよ)、知りなさい。わたしこそ神であることを」。「やめて知る」、この世の中には、やめて知ることがあります。こうだからできないと人は言います。しかし、それは弁解にすぎません。あるいは力信仰にすぎません。「やめて知りなさい」。神はいろいろな手段をもっておられる。神はわがやぐら、わが強き楯。悩める時のいと近き助け。本来その近いものが見えないのです。

 

   
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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