4月17日(日)「祈る心」 説教要旨
−マルコによる福音書 11章24節− 
 

 

 


   人間だけが、神を仰ぎ「祈る」ことができます。動物は、声を出すことはあっても、祈ることはしません。とすれば、祈らない人は、人間以下ということになります。「神のなさることは、みなその時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人はかみのなさることを、初めから終わりまで、見極めることはできない」(コヘレト3:11)。永遠を思うことができるのは、人間の特権です。しかし、私たちは、神のご計画のすみずみまで知っているわけではありません。それゆえ私たちは「主よ、み心を教えてください」と祈るのです。  《待つ》 祈ることの大部分は「待つ」ことにあります。祈る者は、確かにそのご計画の終わりまで見極めることはできませんが、「何を待つか」は知っています。「エルサレムを離れないで、父から聞いたわたしの約束を待て」。そこで弟子たちは、神から来る最もよいもの、聖霊を待ったのです。神は聖霊を、ただ祈って待つ者にのみ与えるからです。待つことは人間のみにできる高等な技術です。人間だけが二時間も三時間も、いや一年でも二年でも待てるのです。もし神からのすばらしい贈り物をいただきたいなら、「待つ」ことを知らなくてはなりません。待つという字は、行にんべんに寺と書きます。教会へ行くことです。それは休止や停止ではありません。はげしく細胞が動いているのです。選手が高く跳ぶ時、その前に低くかがみます。それと同じです。「祈るとは、ひざまずくだけでなく、終わって立ち上がるところまで含む」(カルヴァン)。祈りは、やってもだめだという最後の結論ではありません。また祈りは、行動の代用品でもありません。それならあきらめか居眠りにすぎません。祈りとは、本当の行動が生まれるための、生みの苦しみに近いものです。あした素晴らしいものが生まれることを信ずるのです。
   《信ずる》 祈りによって開かれてくるもの、それは「大きさ」です。あまり小言ばかり言うお母さんに、「あなたは、一言叱る前に、十言祈りなさい」と言ったら、その通りにして、小言を言う必要がなくなったそうです。エペソ書に「人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるようにと祈る」(3:19)と記しています。祈ることを通して、よりまさった神の量りが開かれてきます。この大きさの中で、私たちは自由を得るのです。人の「小さな」量りでなく、大きさが開かれてくる時、平安と力と自由とが与えられます。しかし、信じることは、「大きさ」だけではなく、時間と関係があります。「祈って願うことは、すでに得たりと信じなさい。そうすれば与えられます」(マルコ11:24)。今、祈って願う以上、手元にそれはないはずです。それは「将来」に属することです。祈りは、その将来のものを、今、現在「得たり」と、現在に変えます。祈りとは、不和のただ中で、平和を信じていることです。将来に属するものを現在もっているように生きること、それが祈りの力なのです。「この子は将来、どんな子になるのだろう」と迷ったり、不安に思うことではなく、「きっとすばらしいものが出てくる」と、確信し、将来を現在にもって生きるのが、祈りであり教育です。この祈りなしに、一人でも、豊かに育てることができるでしょうか。そのため祈りは、たえずしっつこさと忍耐をもちます。粘りのない祈りは、感想にしかすぎません。イエスは隣人の戸を夜中に執拗にたたき続けるたとえを話されました。この祈る者の忍耐強さは、決して我慢や人間の克己心の強さではありません。常に神の勝利を、今、見ているのです。種を蒔く人は、春にすでに秋の実りを信じて撒きます。ですから、農夫は、あわてず騒がず、ひたすら待ち続けます。日本人は、あきらめが早いと言われます。しかし、「あきらめ」こそ悪魔です。その来る時がきわめて長く感じられでしょう。しかし、神の「長き」は、人の「長き」にあらず、それは、俄然、突然かも知れません。祈る者は、常に「今ここに」、神の成就を見ています。 《愛する》 祈りは、さらに横に広く広がって行きます。そこで隣人のための祈りが始まります。祈りと愛は、しっかりと手をつないでいます。祈りが、届くだけ遠く、愛も届きます。また反対に、愛が届くだけ遠く、祈りも届きます。イエスは、愛し得ないような人のためにも、祈ることを命じられました。「あなたの敵を愛し、あなたを責める者のために祈りなさい」(マタイ5:44)。一体、敵をほかにして愛に値する人がいるでしょうか。もし兄弟にのみ挨拶するなら、それは信仰なしにも、誰にでもできることです。しかし、誰が憎んであまりある敵を愛することができるでしょう。そこで、「そのあなたを責める者のために祈れ」とイエスは言われます。それには自分自身を越える力が必要です。祈る愛には、もう一つ、「とりなし」があります。とりなしとは、自分のために祈るのではなく、弱く、苦しんでいる隣人のために祈ることです。

 

   
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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