5月22日(日)「怒るとも罪を犯すな」 説教要旨
−エフェソの信徒への手紙 4章25節〜26節− 
 

 

 


   だから、偽りを捨てて、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、あがないの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、いっさいの悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたをゆるしてくださったように、ゆるしあいなさい」。
 「怒るとも罪を犯すな」、この言葉はいろいろに解釈できます。まず第一に、この「怒り」を、社会的、公共的なものと考えることです。世の中には、正義の怒りというのがあります。今日の聖句の原語は、忠実に訳すと、「怒りなさい、そして罪を犯してはなりません」です。すると、「怒りなさい」と、怒りを勧めているようにもとれます。例えば、会社が不正をしている、それを怒らないで、黙っているのか。イラク戦争に、各国の国民は怒っています。君は怒らないのか。こう問われているようです。ドイツにいた時、9月1日に、原爆反対運動をするので、ウエーバー夫人にさそわれました。ドイツでは何十万人と集まるのです。それはこうした草の根の運動家が全国に何万とあって、各二、三十人のグループをもっています。中央にそれをまとめる団体があります。しかし、これは決して上部団体ではありません。各グループが独立し、その反対運動ごとに討議して、参加します。まさに草の根民主主義的運動の形態です。その組織家の婦人の平和なこと、感動しました。「怒れ、そして罪を犯すな」。滝沢克巳という哲学者は、全共闘の運動に共感して講演などしていましたが、彼は「警官にも人権がある」と言って、極左の活動家が、警官は権力の手先と言って、罵詈雑言を浴びせるのに反対しました。平和の運動家は、行動にも人柄にも平和でなくてはなりません。ベトナム平和運動の時、アメリカの婦人が、本当に、そこに立っているだけで、平和な人柄に、感動しました。正義の怒りも愛がともなわなければ、意味がない、これが「怒るとも、罪を犯すな」の第一の意味です。 次に第二の意味に参ります。しかし、この言葉は、次のようにもとれます。それは社会的、公共的な、正義の怒りではなく、きわめて家庭的、個人的な怒りともとれます。こちらの方が、わたしたちにとって身近かでしょう。まず夫婦、親子、兄弟、姉妹、親戚、ここで怒りが爆発します。それはちょっとしたことです。ドストエフスキーは、「口に人類愛を説く人が、隣の人の箸の上げ下げにも、気になるのが人間の愛」だと言いました。愛は惜しみ無く奪うのです。それは個人的な利害関係です。次に面子を汚される、名誉心を疵つけられること。さらに性格の相違もあります。(1) 利害関係 (2) 面子 (3) 性格の相違です。こういうことで、わたしたちは怒ります。それは世界の趨勢からすれば、ささいなことです。それでも、一個人としては重大な問題です。そこで前後を読んでみましょう。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」。これは文字通りに読めば、怒りはいけないけれども、いつまでも怒るのは罪を犯すことだという意味です。わたしたちは、利害関係、面子、性格の相違で、すぐに怒る、それはよい、怒ってもよい、しかし、怒りを日の入るまで続けるな。一晩たったら、すっかり忘れなさい。性格の相違はあります。男女の違いもあります。一生の間に何回か危機を迎えない夫婦関係はありません。そこで 「偽りを捨てて、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです」。真実を語ることが大切です。そこで怒られても、嫌われても真実を語るのです。怒りを相対化しなさい。自己絶対化はいけないということでしょう。
 「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、あがないの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、いっさいの悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたをゆるしてくださったように、ゆるしあいなさい」。

 

   
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