これは一言で言えば、四つの「ない」です。友がない、健康がない、することがない、金がない。しかし
「わたしは裸で母の胎を出た、また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られるのだ。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)です。
最近は老人のためにいろいろな本が出て、健康的な生き方、隣人関係をもつ仕方、また立派に生きている老人について書いてあります。
しかし、立派な人では参考になりません。
私が知った老姉妹は、脊髄カリエスで寝起きが不自由、身寄りもなく、信仰の友の所に世話になっていました。
しかし、彼女は常に、生き生きとし、「私は幸せだ」と感謝していました。
彼女にはすべてがない。ただ信仰だけがあります。
しかし、究極的には、ここに記されているように、「わたしの時は、あなたの御手にあります」。
ここでは、決して、この時間というものが、一般に時というものが、神さまのものだと、言っているのではありません。
それは「わたしの時は」です。つまり、あなた自身の時です。
病気が、戦争が、失業が、失敗が、このいやな性格がある、
このありのままのあなた、「わたしの時」です。この時、あなた、わたしだけがもっている時が、神の御手の中にあるのです。
「あなたの御手」とは、「神の御手」です。それは、イエス・キリストの暖かい御手です。あの病人に手をおかれた、
その暖かい御手です。イエスは、私たちの時間を三十年生きられました。
この時間は、それゆえ、神の時間にほかなりません。わたし自身の時が、この方、神の御手の中にあります。その時、あの四つの「ない」は、素晴らしい特徴であることが分かります。
若いうちは、何かをしなくてはならないと思います。しかし、六十、七十以上になると、「何者でもない」ことが分かります。
これまですべてのことをやってきたのは、この「何者でもない」ことを知るためであったと悟ります。
けれども、その時ほど、神とひとつになり、豊かな自由な時はありません。
私たちは、人生が終わりに近づくと、初めて、人生の意味が分かるのではないでしょうか。あの四つの「ない」は「無」を意味するのではありません。
天国銀行に預けてあるのです。
時は、過去・現在・将来とあります。
年を取ると、過去は記憶の底にあります。楽しかった過去で「あの時代はよかった」という、なつかしみです。
しかし、それだけでは過去の人間になってしまいます。
大切なのは、今です、現在です。
「わたしの時は、あなたの御手にあります」。
その時の、「わたしの時」は、少なくとも第一には、現在です。
さらに聖書で大切なのは、将来です、
「まさに来たらんとする」時です。ヘブル書に「イエス・キリストは昨日も、今日も、とこしえまでも変わりたもうことなし」(13:8)とあり、
そこで、将来のみ、時間の形式が違います。
もし同じにすれば、「昨日も今日も明日も」とならねばなりません。しかし、将来だけ「とこしえまでも」と時間の形式を変えます。それが「希望の神学」のもとにある、
聖書的時間理解です。それで「わたしの時は、あなたの御手にあります」とは、わたしの将来が、「あなたの御手にある」ことではないでしょうか。
今、現在、あなたとともにいるお方、「而今」です。しかし、その方は「来るお方」です。
「主はほむべきかな、包囲された町のように、わたしが囲まれた時、主は驚くばかりに、いつくしみをわたしに示された」(21節)。
「すべて主を待ち望む者よ、強くあれ、心を雄々しくせよ」(24節)。
ですから「わたしに将来はない」と言ってはなりません。「主よ、わたしはあなたに信頼して、言います。『あなたはわたしの神である』と。わたしの時はあなたの御手にあります」。
わたしは、あなたの御手から、いつでも、必要なものをいただくことができるのです。
聖書には「いのち」を表す語に「ゾエー」と「プシケー」に二つがあります。
プシケーは、この世の生命、もう一つのいのち「ゾエー」は永遠のいのちです。
私たちは、いつもこのいのち、プシケーばかりに目を留めてゾエー」を忘れていないでしょうか
生まれた時から見ると、時は過ぎ去って行きます、しかし、再臨の主から見る時、時は、将来に向かって満たされてゆく時です。目標に近づいてゆく時です。
分かりますか、イエス・キリストにおいて時が、時間が変わるのです。来りつつある時となるのです。