6月26日「誰がいちばん偉いか」説教要旨
マルコによる福音書 9章30節‐37節

 

  
   弟子たちは道々 「誰がいちばん偉いのか」と論じあっていました。身を低くして、十字架にかかるイエスが示されたのに、何と無理解なことでしょう。「家におられた時、イエスは彼らに尋ねました、『あなたがたは道でお互いに、何を論じていたのですか』。彼らは黙っていました。お互いに道で『誰がいちばん偉いのか』と論じあっていたからです」とあります。よく考えると私たちの生活の大部分は「誰が一番偉いか」に帰するかも知れません。子供の偏差値もそうです。オリンピックもそうです。サッカーも野球もそうです。芸術家や学者も、結局は自分の業績を誇ることがないでしょうか。いや企業もそうではないでしょうか。
   ただここで注意をしなくてはいけないことは、イエス・キリストは決して「一番を望んではならない」とは言われなかったことです。むしろ、こう言われました、「そこでイエスは座って、十二人を呼び、彼らに言います、『誰でも一番になりたいと思ったなら、すべての人の最後になり、すべての人の仕え人にならなければなりません』」。つまり、一番になろうとすることがいけないのではなく、その一番とは何か、その内容を理解していないことが問題なのです。「誰でも一番になりたいと思ったなら、すべての人の最後になり、すべての人の仕え人にならなければなりません」。キリストの弟子も、一番になってよいのです。ただ「控えめに控えめに」と、身を低くするだけが、信仰の道ではありません。「一番を望みなさい」と言われます。しかし、その一番の人は、「すべての人の最後になり、すべての人の仕え人」になる人なのです。これを「積極的謙遜」と言います。イエスは「消極的謙遜」、いわゆる遠慮とか謙譲の美徳とかを勧めません。信仰者はいつも積極的です。つまり「奉仕の一番」です。
 そしてそのことは、決して言葉のあやではなく、実行にあることを示すために、一つの模範を示しました。「そして幼子を取り上げて、彼らの真ん中に立たせ、その子を抱いて彼らに言いました、『誰でもこのような幼子のひとりをわたしの名のゆえに、受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。またわたしを受け入れる人は、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わしたお方を受け入れるのです』」。まず幼子です。それは決して偉い者ではありません。立派なみんなの模範になるような有徳の人でもありません。むしろそれは「弱さ・小ささ・無力」の象徴ですらあります。今イエスは、この無力の象徴を、自ら抱き上げ、みんなの真ん中に立てたのです。そしてこの無力の象徴を「受け入れる」ことを求めました。イエスはほかでもなく「取税人・罪人」を受け入れました。彼らと食事を共にしました。姦淫の女を受け入れました。これら無力の象徴にすぎない者をも受け入れました。そこには十字架の姿があります。「父よ彼らをゆるしてやってください。自分のやっていることが分からないのですから」と、その十字架の上で祈られたイエス・キリストの姿があります。
 この小さな幼子を受け入れることは、決して利益ではありません。決して「かわいい」から受け入れるのではありません。かわいくない子も受け入れるのです。それでイエスはわざわざ「誰でもこのような幼子のひとりをわたしの名のゆえに、受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」と言われたのです。「イエスの名のゆえに」ということは、その幼子のもつ価値によってではなく、イエスがその幼子のためにも十字架にかかってくださた、そのことのゆえにです。そうだとすればこの世に、イエス・キリストによって受け入れられない人は一人もいません。障害の子が生まれたことにショックを受けた婦人が、一番救われたのは、イエスのこの言葉でした。「これらの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたのである」。
 わたしたちはここで最後に思い起こしましょう。それは馬小屋に生まれた幼子イエスです。この馬小屋に生まれた幼子を、人びとが主と仰いだ時に、全世界が変わりました。今、、幼子が真ん中におかれた時、わたしたちはこの馬小屋に生まれた幼子を思い起こすのです。低く低く、小さな幼子となられたイエス・キリストこそ、わたしたちの救い主なのです。それゆえに、わたしたちは皆、心から自分を低くして、十字架のイエスに従ってゆかねばなりません。この幼子を受け入れる人は、イエスを受け入れるのであり、その人こそ、イエスを地上に遣わした生ける神を受け入れるのです。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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