聖書は十の悪いことを並べた後で、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」と五つ善いことを列挙します。悪が十あるのに善は五です。「善事は門を出でず、悪事は千里を走る」と言われます。悪事の方が、ふつう善事よりも強いのです。しかし、悪は、数が多いから勝つのではありません。「あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる愛せられた者」とあり、善をなす者には、神の選びと愛があるのです。「神がわたしたちの味方なら、誰が、わたしたちに敵対できるでしょうか。ご自身の御子さえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために、死に渡されたお方が、どうして御子といっしょに、すべてのものを恵みとしてくださらないはずがあるでしょうか」(ローマ8:31)。それゆえ悪は、たとい数が多くても善に勝つことができません。「悪に勝たれることなく、善をもって悪に勝て」(ローマ12:21)。ヒットラーは勝ったでしょうか。侵略した日本は勝ったでしょうか。悪は最後に勝利することができない、それが神のみ旨ねなのです。
「あわれみの心、慈愛」の二つは、他者への愛です。後の三つ「謙遜、柔和、寛容」は、自分の控えめな態度、前者を積極的な他への働きかけとすれば、後者は自分を低くする、いわば消極的態度と言えるでしょう。このようにわたしたちの善い行いには、積極的な面と消極的面とがあります。例えば、もし慈愛だけあって、謙遜がなければ、案外自分勝手な愛情になりますし、愛ゆえに傲慢に膨れ上がるといった、愛とは正反対のものに成り下がるかも知れません。しかし、反対に柔和だけあって、積極的な愛の行動がなければ、ただおとなしい善いこともしなければ、悪いこともしない人間になるでしょう。わたしたちの行為は、いつも積極面と共に、消極面をもたなくてはなりません。よく「出るのみで、引くことを知らないのは名将でない」とは言われます。消極性をもたない、積極主義ばかりではだめです。しかし、引っ込み思案で謙遜の固まりも困り者です。
次にその倫理は、いつも相互性をもっていなくてはなりません。「お互いに忍びあい、お互いに責めるべきところがあれば、ゆるしあいなさい。主もまたゆるしてくださったのですから、あなたがたもそのようにしなさい」となっています。片方だけが、忍耐し我慢しているというのは、よくありません。それは前に述べた、キリストの「共に」からでてくるのです。神自身が、父・子・聖霊と互いに交わりの中にある神なのですから、この神によって造られたわたしたちの中に相互性があって始めて、その神の写し絵となれるのです。一人で苦しんでいないで、共に苦しみ、忍耐しましょう。二人で負う時、その苦しみは半減します。いやそれどころか、その苦しみは愛の勝利に変わります。ですから、「これらすべてのものの上に、愛を加えなさい。愛は完成させる結びの帯です」と言われるのです。パウロはTコリント一三章の「愛の歌」で、愛がなければ、そのほかどんなすばらしい徳があってもむなしいと言っています。「愛こそすべてを完成させる結びの帯です」。
主イエスは、あの金持ちの青年に、「あなたに足りないことが一つある」(マルコ10:21)と言って、具体的に貧しい者に施すことを勧めました。わたしたちの信仰も、最後の一つを欠くことがあります。神学もよく知り、礼拝も完全に守って、忠実な信仰生活をしていても、その信仰に「すべてを完成させる結びの帯」、すなわち愛が欠ける時、それらすべての完璧さは、何ものでもないのです。ここで「帯」とは「共に結ぶもの」という意味です。帯がないと、着物がからだから離れて、身を包む衣服としての役をしないように、もし愛がなければ、知識も信仰も礼拝も、みなからだから離れて抽象的なものになってしまいます。帯で結ばなければ、裸の恥じをさらすように、愛が、すべてを完全に結ぶ帯であることを銘記しましょう。「謙遜、柔和、寛容」を身につけていても、「忍びあい、ゆるしあっていても」、この帯で結ばれていないと、形ばかりのゆるし、表面では忍耐しつつ、心は怒りに燃えさかっているということもないわけではありません。神は愛なのです。「愛さない者は、神を知らない」(Tヨハネ4:8)のです。どんなに神を知っていても、聖書を学んでいても、この帯がなければ、愛なる神を知らないし、最も大切な一つのものを欠いていることになるのです。
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