旧約の歴史は苦悩の歴史です。その最大のものは、出エジプトとバビロニア捕囚です。新約聖書も苦悩の歴史であることに変わりありません。イエスの生涯は次の歌に現れています「まぶねの中に産声あげ、たくみの家に人となりて、貧しきうれい生きる悩み、つぶさになめしこの人を見よ。食する暇も打ち忘れて、ししたげられし人をたずね、友なき者の友となりて心くだきし、この人を見よ。すべてのものを与えしすえ、死のほか何もあたえられずで、十字架の上にあげられつつ、敵をゆるしし、この人を見よ」(賛美歌121番)。パウロの生涯も苦悩の連続でした。しかし、その苦悩と戦いは、信仰の希望です。「義という平和に満ちた実を結ばせる」のです。またヘブル11章の初めには、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。この人びとの信仰とは希望の神学です。しかし、ここで一転して、その苦難は、神の愛の訓練であることを記します。しかし、「艱難汝を玉にす」という日本のことわざのように、艱難そのものが、価値のある玉だというのでなく、アブラハム以来戦ってきた信仰の人びとの最後に、救い主として、その完成者として現れたお方イエス・キリストをこそ見つめることの必要を説きます。苦しみは大概自分の罪か他人の罪によります。また理由のわからない苦しみがあります。しかし、理由のわからない苦しみこそ人間の深み、人と神の出会う根底なのです。生まれながら目の見えない人に、「神の御業が現れるため」と言われたのはそのことです(ヨハネ9:1)。
あとで訓練・養育のことが出てきますが、私たちの悪い点は、この自分にからみつく罪を忘れることです。そこで一番困ることは、子供に手を焼くことではありません。今日の問題の大部分は、若い子が悪くなったことではなく、教育者が罪人であることです。親は子供の中に罪を見て叱ります。しかし、自分自身の罪を忘れています。冷静になってみれば、自分自身の罪に思いをはせることもあるでしょう。しかし、子供の前では、つねに優越者です。また子供の罪を見る、その見方もきわめて甘いものであります。自分の教育でよくなると思っているのです。とんでもありません。罪人が罪人を教育できません。まず自分が駄目であること、自分の罪から出発することが大切です。「すべての重荷とからみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの前にある競争を、忍耐をもって走りぬこうではありませんか」とあるのは、まず自分自身の罪に気づかせているのです。「一歩退いて、自分の罪に祈ることのできない親は、一歩出て子供を助けることはできません」。しかし、罪に気づくことは、罪にとらわれることではありません。その時、もっと大切なことは、自分を見ないで、また周りや直面する苦難を見ないで、「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを仰ぎ見る」ことです。わたしたちの中に、信仰を始めてくださったお方は、またそれを完成してくださるお方です。私たちは、何か人間的な策略や手立てを求め、探そうと誘惑にかられる時、その時、キリストこそ、導き手であることを忘れてはなりません。ほかの手段は、この本当の導き手を仰ぎ見る時、生まれてくる補助手段にすぎません。「そしてあなたがたに、息子に対するように語りかけてくださる、その慰めの言葉を忘れています。わたしの子よ、主の訓練を忘れてはいけません。主によって罰せられる時、弱り果ててはいけません。主は、愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を鞭打たれるのです」。「すべて訓練は、当座のうちは、喜びではなく、悲しみと思われます。しかし、後になって、それによって鍛えられる者たちに、平和な義の実を結ばせます」。神のなさりようは、後になってよく分かります。その深い意味は、かなり後年になって、「そうだったのか」と、神の深いはかりごとにうならせられることがしばしばです。「わたしは神が人の子らに与えて、骨折らせる仕事を見ました。神のなさることは、皆その時にかなって美しいです。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられましたが、それでもなお、人は、神のなさる業を、初めから終わりまで見極めることはできません」(伝道の書3:11)。今その時、分かるほどのことは、その場かぎりのことで、神の深い救いとのつながりが薄いのです。火で長いこと煮詰めないと、おいしいだしは出てこないように、奥深い信仰的意味は、長い厳しい訓練と苦しいにがい体験を通してにじみでてきます。
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